T.蚕糸試験研究の萌芽期

1.明治政府の勧農政策の変動
 江戸幕府以来の鎖国を終え近代的統一国家の形成を指向する明治政府が目指したのは、富国強兵、殖産興業、文明開化であった。当時、大蔵卿として勧業行政に携わっていた大久保利通は、これらの課題を実現すべく、明治6(1873)年5月に内務省創設を建言した。同年11月これが採択され、大蔵省の事務を分けて内務省が創設されると自ら内務卿に就任し、その政策実行にあたった。それまで勧業行政は民部省(明2年7月開設)、ついで大蔵省(明4年7月創設)の担当であり、大蔵省では造幣寮・租税寮が一等寮で勧業寮は三等寮であったが、内務省になると勧業寮(農務・工務・商務・編纂の4課を置く)は警保寮とともに省内の最も重要な一等寮となった。大久保は「殖産興業ニ関スル建議書」(明7年5月)を起草し、富国強兵は政府の策定を原動力とする殖産興業に立脚するという考えを示し、特に工業の保護育成を強調した。

大凡国ノ強弱ハ人民ノ貧富ニ由リ人民ノ貧富ハ物産ノ多寡ニ係ル、而シテ物産ノ多寡ハ人民ノ工業ヲ勉励スルト否サルトニ胚胎スト雖モ其源頭ヲ尋ルニ未タ嘗テ政府政官ノ誘導奨励ノ力ニ依ラサル無シ
(「殖産興業ニ関スル建議書」より)

 政府の行った殖産部門は多岐にわたるが、その中に富岡製糸場(明5開業)、新町紡績所(明10開業)、愛知紡績所(明14開業)などを見ることができる。政府の行った殖産工業政策はこのように工業を中軸に据えているが、同時に華士族授産、国力増強の観点から農業振興にも力点が置かれていた。それは、試験研究機関の開設にも表れている。

2.内藤新宿試験場蚕業試験掛の設置(明治7年)
 明治5年(1872)10月には、旧内藤氏邸跡地9万5千坪余を買収して、大蔵省租税寮勧業課の所管として内藤新宿試験場を開設し、各地に散在する府下農事試験場もここに統合させた。明治6年に内務省が設置されると、試験場は勧業寮の所管となり、明治7(1874)年3月の同省勧業寮事務章程には、「第八条 農業学校及び勧業会社の制を制定す」と規定して、勧業寮出張所に農学掛、蚕業試験掛を設置した。9年9月には一般勧農事務を分離して試験場組織として独立し、明治10(1877)年10月勧農局設置と同時に勧農局農業試験場と称した。内藤新宿試験場では、@内外穀菜果樹の試作・繁殖・頒布(後に三田育種場へ)、A農具の試験・展示(後に三田農具製作所へ)、B各種農産の製造・加工・分析、C外国牧畜の飼養、D養蚕および製糸試験、E農業博物館設立などの事業を行った。
 1852年南フランスに起こった微粒子病は、2〜3年もすると北部に広がり、フランスの生糸産業は壊滅状態に追い込まれた。さらに1860年代に入るとイタリアにも広がり、ヨーロッパの蚕業地帯は、微粒子病蔓延によって壊滅的打撃を受け、無病蚕種の要求は多大であった。そのため、イギリスの貿易商たちは、急遽香港や上海経由で日本への接触を図った結果、蚕種は作れば売れるという状態が起こり、にわかに蚕種製造を行うものなどが続出し、その結果甚だしい粗製濫造が行われ出した。そこで政府は、蚕卵紙生糸改所の設置(大総督府、明治元年4月)、蚕種製造規則を発布(民部省、明治3年8月)、蚕種原紙規則制定(明治5年11月)等の手だてを講じたが大きな効果を生まなかった。一方、フランスでは、ルイ・パスツールが仏政府の依頼で微粒子病の研究に取り組み、1870(明治3)年に病原体を発見すると共に袋取法(交尾・産卵後の雌を磨砕して顕微鏡で胞子の有無を調べ、胞子が発見されればその蛾の産んだ卵をすべて焼却するという方法)を開発し、健全な蚕種製造が可能となった。それに応じて蚕種の輸出は年々減退し、やがてほとんど輸出されなくなり、代わって生糸が輸出の主流となった。内藤新宿試験場において養蚕および製糸試験が行われた頃の国内外の蚕糸業の情況はこのようであった。
 当時、内藤新宿試験場蚕業試験掛において行われていた蚕糸業に関する試験および伝習の事務について、明治35年3月発行の大日本蠶絲會報第117号には次のように記されている。

(前略)爾後五年間に施行せる試驗の重もなるものは桑樹種類試驗、内外國蠶種試驗、蠶病試驗、養法得失試驗、製絲試驗、きょう蛆試驗、野蠶試驗等の數種にして清國産魯桑、伊國産黄金種の移入等は即ち此時代に在り。而して飼育法の改良、きょう蛆發育の經過、蠶體解剖等の學理的研究を將來せるの端亦此時に發せり。而して其養成せる生徒の數は前後百五六十名に達し共に斯業改進に資せること尠からざりしを以て尋で蠶事學校設置の計畫ありしも同十二年五月に至り試驗場の廢止せられたる爲め其事亦逐に成らず。以來中央政府は蠶絲業に關する試驗を中絶するに至れり。
(雑録『東京蠶業講習所沿革』)

3.内藤新宿試験場蚕業試験掛の廃止(明治12年)
 このようにして官主導ではじまった「養蚕および蚕糸試験」は、明治12年になって大きく変貌することとなる。明治11年5月に内務卿大久保利通が暗殺された後、大久保民業奨励政策を実質的に指導することとなった勧農局長松方正義は、明治12年(1879)に有名な『勧農要旨』を起草している。この中で「上州富岡製糸場、泉州堺紡績場、下総牧羊場、或ハ東京府下ニ設立セル試験場ノ類、(中略)此種ハ固ヨリ一時ノ仮設ニシテ到底政府ノ永ク関与スヘキモノニアラス」と払い下げあるいは廃止の方針を提示し、次いで「政府カ資金ヲ以テ妄リニ小数人民ニ貸与スルノ益ハ、此ヨリ生スル所ノ弊害ヲ償フコト能ハサルナリ」「政府カ保護ノ厚意ハ反テ人民怨望ノ謀トナリ、到底姑息ノ仁タルニ過キサルヘキナリ」「本原ニ遡リテ之ヲ論スレハ、農業ハ人民営生ノ私業ニシテ、政府繊芥之ニ関与スヘキノ権力ヲ有セサレハナリ、仮令政府カ何等ノ新利良法ヲ以テ人民ニ勧ムルトイヘトモ、之ヲ実行スルモノハ人民ノ力ナリ、而シテ之ヲ取捨スルノ権只人民ノ択フ所ノミ、人民応セサレハ政府復之ヲ奈何トモスルコトナシ、況ンヤ人民ノ曾テ好マサル所ヲ強ヒ未タ信セサル所ヲ責ムルニ於テヲヤ」と述べ自営私為の原則を強調した。これ以降、政府の保護奨励は、直接保護から間接保護に移ることになる。松方は勧農局長の後内務卿となり、以後明治30年ころまで大蔵卿、大蔵大臣、総理大臣など要職を歴任するが、農政に関する政府の所見はこの『勧農要旨』に基づいている。松方の方針により、内藤新宿勧業局農業試験場で行われていた事業の多くは他機関に移され、勧農局試験場は廃止された。こうした政府の保護政策の変化により、蚕種や生糸の生産販売と同様に蚕糸の試験研究および伝習に関しても放任主義がとられ、明治12(1879)年5月勧農局試験場の廃止とともに、蚕業試験掛の業務は打ち切られ、蚕糸研究は一旦途絶えることとなった。
※ちなみに、この松方正義の9男松方正熊男爵と、アメリカの市場へ生糸の直接取引を図って商社を設立した新井領一郎の長女ミヨとの間に生まれた春子は、元駐日大使エドウィン・O・ライシャワーと結婚し、父方、母方双方の祖父の生涯を描いた『絹と武士』を著している。


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