X 化性
以下の諸章で述べる蚕種の保護取扱いの主要な問題点は卵の越年性をどのように管理するかと云うことにかかっているから、その理解のために必要な化性の問題を説明しておく。
1 越年性の管理
蚕の卵には、産卵後一定の発生段階に達すると、外部の環境は発育に適当であるにも抱らず、胚の発育が一旦休止(休眠)して、ある程度の低温期間を経過しなければ発育機能を回復し難い性質のものがあり、このような卵は、自然状態においては、冬を越してから初めて発育を始めるので越年卵と呼ばれ、これに対して、休眠しない性質の卵は年を越すことなく孵化するので、不越年卵と呼ばれている。
総べての環境が一定であれば、蚕卵の越年性、不越年性は遺伝的性質によってきまる。春蚕の蛾が越年性卵を産む1年に1世代だけの種類を一化性、春蚕は不越年性卵を産み、その卵から孵化した蚕は越年性卵を産んで、1年に2世代を繰返えすものを二化性と云い、その他四化性、多化性などの種類がある。
厳密に云えば、越年する性質を持っている卵(産卵後の取扱いの如何によっては不越年性になる)を越年性卵、これが冬を越したものを越年卵として区別すべきであろうが、普通に越年種と云えば両方の意味に用いられ、そのときどきによって適当に解釈している。例えば、越年種の保護と云えば、越年性卵の産卵直後、未だ越年性の確定しないときからの保護を意味し、越年種の孵化と云えば冬を越した越年卵の孵化を指す。
越年性卵を黒種(くろだね)、不越年性卵を生種(なまだね)とも云うが、これを広義に用い、人工孵化法によって不越年にした蚕種を生種と呼び、人工孵化種にすることを“生にする”と云うような言葉の使い方も蚕種関係者の間では行なわれているが、関係者以外には通用しない場合が多い。
蛾になってから不越年性卵を産む(以下これを不越年卵性と呼ぶ)蚕は越年性卵を産む(越年卵性)蚕に比べて繭質が劣り、産卵量が少なく、不越年性卵は長く貯蔵することのできない不便がある。これに対して越年性卵は翌年まで貯蔵することができるばかりでなく、適当な時期に人工孵化処理を施すと不越年性に変えることができ、不越年に変えても繭質は劣らない。また催青法によって、二化性蚕の第1化目に越年性卵を産ませることができるので、日本では、現在、実用的には常に越年卵性になるように蚕を管理し、本来の不越年性卵を用いることがない。人工孵化種を生種と呼んでも蚕種関係者の間で間違いを起こさないのはこのためである。
産み出されたときの越年性卵は、越年性の方向は与えられているが、未だそれを完成していない状態にあるから(V3Bc)、これを安全に越年させるためには越年性を完成させなければならない。これが越年蚕種の初期保護の眼目である。
越年性の完成は卵の休眠によって成立するのであるが、休眠した卵は、翌年の孵化させる時期に応じて休眠期間を調節し、予定の時期までに完全に休眠を解消させなければならない。これが越年蚕種の初冬期以後の保護法の主要題目である。
卵時浸酸は、越年性の確定するまでに卵に処理を施こし、休眠に入るのを中止させ、これを不越年性に変える方法である。不越年性に変わった卵は貯蔵に耐える期間が短かいので、産卵後40日以上もたってから孵化させたい場合には、休眠を幾分進めてから冷蔵すると、進めた休眠がある程度解消するまでに日数がかかるから、これによって貯蔵に必要な時を稼ぐことができる。これに浸酸を施こして孵化させるのが冷蔵浸酸法である。
このように、蚕種保護の重要問題はその多くが越年性の管理につながっている。
A 化性の変化
a 温湿度および光線による変化
温度による化性変化の方向は蚕の1世代を通じて同じではなく、3令を境にして逆転する(第88表)。
刺戟の時期 | 形質の変化方向 | ||
高 温 | 低 温 | ||
胚 子 期 | 4 眠 → 5 眠 不越年 → 越 年 |
4 眠 → 3 眠 越年 → 不越年 |
|
幼虫期 | 1−3令 | 4 眠 → 3 眠 不越年 → 越 年 |
4 眠 → 5 眠 越年 → 不越年 |
4−5令 | 越年 → 不越年 | 不越年 → 越 年 | |
蛹 期 | 越年 → 不越年 | 不越年 → 越 年 | |
蛾 期 | 越年 → 不越年 | 不越年 → 越 年 |
しかし、その影響の最も強いのは催青中の温度で、二化性蚕種を25℃で催青すると、他の時期の温度の影響は殆ど覆われてしまい、蚕は越年卵性を獲得することができる(1139,1141)。
催青温度が化性に影響するのは胚に胸肢の発生する頃(Y2Be)から以後であるから、二化蚕の越年卵性を確実にするためには、少なくともこの時期から胚の頭部が着色し初める頃までを高温に保護する必要があるが、同じ日数だけ低温を作用させて不越年卵性蛾の発生歩合を比較すると、この期間のうちでも、後期になるほど低温によって不越年卵性蛾を出し易い(第89表)。
低温処理を 始めた時期 |
低温日数 (日) |
産卵結果 | ||
越年卵性蛾(蛾) | 不越年卵性蛾(蛾) | 不越年卵性蛾歩合(%) | ||
A 胚に胸肢発生 | 1 7 10 15 |
294 240 185 0 |
0 2 14 215 |
0 1 7 100 |
B 胚の体表に細毛発生 | 1 7 10 |
123 40 9 |
2 52 102 |
2 57 92 |
温度と共に化性に対する影響の大きいのは光線である(406,409)。木暮によれば、光線および高温が越年卵性蛾*を多くする方向に最も強く作用するのは催青中、これに次ぐのが稚蚕期(1−3令)で、3令にはその影響が小さくなり、壮蚕期(4−5令)には逆転して、不越年卵性蛾を多くする方向に働くようになる。蛹期においても壮蚕期と同じ方向に働く。有効な光の強さは温度によって異なり、20℃での催青中には0.0095F.C.、15℃催青においては0.0136F.C.が最低限界であるが、稚蚕期にはこれよりも更に高く0.077F.C.が最低限界であると云う。有効な波長の範囲は5,500Å以下(緑から青の方向へ)である。但し、この最低限界と云うのは、効果の認められるようになる最低限界の光の強さの意味で、越年卵性を確実にする光の強さの意味ではない。
*木暮は、温度が化性に影響するのは主として蛹および産卵後の時期で(X2A)、催青中の温度および光は主として卵色に影響するものと考えているが、二化性種の着色卵は普通の場合には越年性卵と考えてよいから、ここでは着色性は越年性に等しいものとして記載した(83および152頁参照)。
越年卵性を確実にするためには、0.5F.C.以上の照度で、20℃以上の催青では毎日16時間以上、15℃催青では18時間以上の照明を、少なくとも胚の反転から気管の分化するまで(頭部着色の前)の間続ける必要がある。上記の時間照明すれば、1日中照明したのと同じ効果がある。
大造品種を24℃±1℃で飼育した場合に、その越年卵性を決定的にきめるのは幼虫期後期の短日処理(10時間明)であると云う報告もある。
催青中の湿度も亦化性に影響し(第90表)、低湿度ほど不越年卵性蛾を多くするが、催青温度の低い場合には、元来不越年卵性蛾歩合が高いので、湿度の影響が明瞭でない。
催青中の湿度 | 催青温度 | ||
17℃ | 21℃ | 24℃ | |
20−25% | 98% | 87% | 51% |
62−69% | 94 | 37 | 10 |
93−96% | 58 | 4 | 1 |
反転まで20−25% 以後93−96% |
89 | 24 | 2 |
反転まで93−96% 以後20−25% |
96 | 63 | 26 |
越年性管理の最も有力な手段に催青条件が挙げられるのは以上のような理由に基ずくのであって、越年卵性を確実にするための二化性蚕種の催青標準として温度25℃、湿度70−80%、1日16時間以上の明保護が採用されているのはこのためである。
b 遺伝性
化性は母親遺伝をする性質で、その優劣関係は一化性>四化性<二化性であると云われているが(1134,1136)、伴性遺伝も関係し(646)、単純なものではないらしい(616)。
同じ二化性と云われているものでも、品種によってその程度は著しく相違し、調査の時期によってもその表現にかなりの違いがある(第91表)。
系統 化性 |
1962年調査 | 1963年調査 | ||||||||
品種名 | 越年卵性蛾 歩合(%) |
不越年卵性 蛾歩合(%) |
混合卵蛾 歩合(%) |
調査蛾 数(蛾) |
品種名 | 越年卵性蛾 歩合(%) |
不越年卵性 蛾歩合(%) |
混合卵蛾 歩合(%) |
調査蛾 数(蛾) |
|
日本種 二化性 |
玉 光 神 光 瑞 光 日502号 日126号 日124号 |
5 99 100 93 66 95 |
84 1 0 0 0 0 |
11 0 0 7 34 5 |
19 79 113 30 38 38 |
郡 宝 し な の 昭 光 日122号 日124号 日126号 日127号 |
62 12 81 89 70 69 39 |
1 54 0 0 0 1 3 |
37 12 81 89 70 69 39 |
134 145 145 122 149 145 143 |
支那種 二化性 |
銀 白 栄 玉 支125号 支126号 支115号 支124号 |
41 75 0 6 1 6 |
48 21 100 44 71 51 |
11 4 0 50 28 43 |
106 147 91 123 163 124 |
春 光 た か ね 栄華(3眠) 栄華(4眠) 支115号 支124号 支126号 支127号 |
55 4 7 40 0 5 20 93 |
37 94 87 46 93 87 68 1 |
8 3 7 14 7 8 12 6 |
180 199 45 70 139 126 137 89 |
また、勝又(319)によれば、インドネシアの四化蚕に日本の二化蚕を交雑すると、第1代の卵が越年性になり、F2卵が、1蛾の中で、1/4は不越年I生、3/4が越年性に分離し、単因子遺伝を示したと云う。
化性は淘汰によっても変り易い。室賀(615)は二化性の日本種日新の1蛾区から出発して、越年卵性と不越年卵性との方向へ13代の淘汰を重ねた結果、20℃暗催青によって全部の蛾が着色越年性卵を産む系統と全部の蛾が不着色不越年性卵を産む系統とを分離することができたと云うが、梅谷(1112,1113)も、低温催青を行なえば完全に不越年卵性蛾ばかりを出していた二化性品種が、長年に亘って高温催青・人工孵化による系統維持を続けている間に、自然に一化性に近いものに変化していた例を報告している。
また、室賀(609)によれば、二化性種(正白および日新)の1蛾の卵を2分して、一半には高温明催青、他半には低温暗催青を施こし、孵化後同一環境の下で飼育して得た蛾を用い、高×低、低×高、高×高、低×低の交配を行なった処、高温母体のものは全部越年性卵、低温母体のものは全部不越年性卵を産んだ。これは期待通りの結果であるが、これらの卵の越年性のものには即時浸酸を施こし、不越年性のものはそのまま、共に20℃の暗催青を行なって次代を調べた処、高温母体(高×高も)の次代には不越年卵性蛾、低湿母体(低×低も)の次代には越年卵性蛾が多かったと云う。この場合は、同一母体の卵から出発しているので、遺伝的な分離の結果ではなく、生理的な現象と考えなければならない。
c その他の原因による化性変化
長谷川(153,157)は化蛹後2、3日の蛹に硝酸ウラニウム10M水溶液を0.05ccぐらい注射すると、越年卵性のものが多数の不越年性卵を産むようになることを発見した。化蛹2日目に注射した場合の卵を産卵順序によって初、中、晩に分けると、初期の産卵は総べて不越年性卵、中期のものは不越年性卵と越年性卵との混合、晩期の産卵には越年性卵が多く不越年性卵が極めて少なかった。これは、ウラニウムが、注射当時に未だ越年性に方向付けられていない卵のうちのある程度発育しているものにだけ作用するためであって、化蛹5日目に注射すると殆ど全部の蛾が越年性卵を産み、混産蛾においては、初期の産卵が全部越年性であった。水および体液に難溶性の燐酸ウラニウムを化蛹初期の蛹に挿入しても効果がなかったから、上記の結果は放射線の影響によるものではないと云う。
食道下神経節を摘出あるいは移植すると化性の変化することは後に述べる。福田(109)は、不越年卵性蛹の気門のいくつかをエナメルで閉ざすと越年性卵を産んだと報告している。エナメルに少量のガソリンを加えると効果があるらしい。福田(116)はまた越年卵性蛹の皮膚に傷をつけたり、ある種のホルモン剤、卵黄、空気、ガラス片、繭片などを注射または挿入したりすると不越年性卵を産み、不越年卵性蛹に同様な処置をすると越年性卵を産むことが縷々あると云い、これらの処置が食道下神経節の分泌活動を変化させるのであろうとして、ストレスによる化性変化と呼んでいる。
吉武(1205)は、越年卵性蛹に硝酸ウラニウム、KCl、種々な酵素阻害剤などを注射すると不越年性卵を産むが、不越年卵性蛹にKCl、クエン酸ナトリウム、アジ化ナトリウムなどを注射すると越年性卵を産むと報告している。
西郷(788)は、二化性蚕種の催青中に炭酸ガスを接触させると不越年卵性蛾が多くなることを報告した。催青温度19℃−20℃のときに、炭酸ガス濃度3−5%で処理するのが最も有効で、付属肢形成期から孵化期までの間において接触期間の長いほど効果がある。例えば、19℃(支106号は20℃)、炭酸ガス濃度4%、催青期間中接触の場合の不越年性卵蛾歩合は日110号24%(無接触3%)、乞食96%(同64%)、支106号55%(同19%)であった。
不越年卵性の強い大造種の蚕を一化性または二化性系統の蚕と混合飼育すると大造の越年卵性が高まると云う報告がある(443,444)。原因としては、一化性蚕の残桑を大造に与えると越年性の強まる傾向があるとか、混合育によって大造の食桑が活発になるためではないか、などと考えられているが、確実なことはわかっていない。
これらの結果は、何れも最終的には食道下神経節の分泌活動に帰せられるものではあろうが、種々な誘因がどのような機構でそれにつながるのかは未だ明かにされていない。ただ極めて多くの条件が化性変化の誘因になり得ることは明かであるから、蚕の一生を通じて、異常な環境や取扱いを避ける注意が大切である。
B 休眠
a 休眠の完成
蚕卵の越年性の完成は卵の休眠によって成立するから、休眠の調節は越年性管理の重要な部分を占める。催青、飼育、上蔟、発蛾の全期間を通じて、保護条件を越年卵性を高める方向に調整しても、実際に越年性の確定するのは産卵後である。
越年性への方向付けの不十分な卵を越年化させるには産卵後暫くの間低温(15℃)に保護するのがよいが(V3Bc)、15℃に保護しただけでは越年性の方向はきまっても、完成はしない。
蚕の越年性卵は、休眠に入ると、ある期間低温に接触しなければ正常な孵化機能を得ることができないが、高温においたままでも全然孵化し得ない訳ではない。産卵直後から15℃以上の種々な温度に保護しておき、その温度での越年性卵の孵化をみると(第92表)、15℃での孵化が最も早い。これは休眠が完成しないまま越年性を失なうためである。 同様に20℃においても25℃に比べて休眠が不安定である。30℃においては全然孵化せず死滅している。
保護温度 (℃) |
日本一化 | 支那二化 | 日本一化×支那二化 | 支那二化×日本一化 | ||||
孵化歩合 (%) |
孵化の日数 (日) |
孵化歩合 (%) |
孵化の日数 (日) |
孵化歩合 (%) |
孵化の日数 (日) |
孵化歩合 (%) |
孵化の日数 (日) |
|
30 25 20 15 |
0 6 57 93 |
− 245−393 139−439 127−204 |
0 11 68 93 |
− 250−373 138−396 121−170 |
0 32 79 94 |
− 245−391 138−456 121−192 |
0 36 83 99 |
− 255−378 159−456 121−197 |
この表は、休眠のほかに生理障害の加わった孵化成績を示していると考えられるから、例えば、30℃においても、その期間を短かくすれば、生理障害を与えずに休眠を完成させ得るとは思われるが、第51表をみると、28℃に3日間おいただけのものでさえ、25℃においたものに比べて遙かに劣る結果が出ている。従って30℃は蚕種にとっては正常をはずれた温度と考えられ、休眠の完成には25℃を中心とした温度が実用上最も安全なことがわかる。
産卵後、越年性卵を25℃で引続き保護すると、90日ぐらいまでは、25℃期間の長いほど孵化機能を得るのに要する低温日数が長くなるが(第51表)、これが、休眠の完成に90日かかることを示すものとは考えられない。
休眠に伴なう蚕卵の生理的変化をみると、25℃内外の温度においては、産卵後、
核分裂の認められなくなるのが 約4日(386)
卵汁のpHの最低値になるのが 約10日(965)
卵黄細胞の移動の完了するのが 約10日(928)
チロシナーゼ作用の最低になるのが 約14日(687)
グリコーゲン含量の最低になるのが 約30日(81)
炭取ガス排出量の最低になるのが 約30日(872)
であるから、生理作用の最低になる時期を目標にするならば、休眠は産卵後30日以内に完成するものと考えられる。
また、蚕種保護の面からみても、25℃の期間が30日を超えると越年種の孵化歩合が低下するから(第93表)、休眠完成のための高温保護期間は30日以内にとどめるのがよい。但し、これは原種の場合で、交雑種においては25℃期間が50−60日になっても障害のない場合が多い。
25℃日数(日) | 供試卵数(粒) | 孵化粒数(粒) | 孵化歩合(%) |
34 54 85 117 146 162 25℃に放置 |
4,189 4,314 4,179 4,466 4,685 4,606 4,419 |
3,696 3,478 3,234 1,286 1,013 596 6 |
88 80 77 28 21 12 0 |
大野(766)は、25℃保護90日ぐらいの頃が休眠解消(活性化)に要する低温保護日数の最も長いときで、高温日数が100日を超えると却って活性化し易くなると報告したが、これは第51表および第94表においても明かである。大野ら(764,1118,1119)はまた、30−60日、特に35−40日頃に、その前後に比べて冷蔵または洗落しの機械的刺戟によって幾分活性化し易い時期があると云う。材料に用いた蚕品種は異なるが、河合(349-351)の洗落し試験においては、50−60日で孵化の多くなることは認められるが30−40日にこのような時期のあることは認められない。しかし、このような考えで高梨らの成績(第51表)をみると、省略した高温20日、50日、70日の成績をも加えた中で、高温30日で冷蔵したものの孵化が冷蔵日数の短かい時期において幾分勝っている。偶然の一致であろうとは思われるが、もしこのようなことが確認されれば休眠の生理上問題である。
b 休眠の解消(活性化)
休眠卵の活性化のために最も有効な温度は5o- 7.5℃であるが、蚕品種によ
って幾分違いがあり、活性化が、5℃よりも幾分高めの温度において速く5℃以下ではおくれるものと、5℃以下でもかなり速いものとがある(685,936)。従って、活性化の早さだけからみれば、品種によって、5℃と7.5℃との何れがよいとも云われないが、蚕種保護において一定の低温を用いて休眠卵を活性化させるのは、活性化を促進すると共に、早く活性化した卵の発育をできる限り抑え、その間におくれているものの活性化を進め、全体の発育を揃えるのが目的であるから、活性化の目的にそう限り温度の低い方が望ましく、この点からは5℃が7.5℃に勝る(第102表)。
2.5℃は活性化の促進においては5℃に劣るが、卵の生理作用を抑え、活力の低下を防ぐ点では勝っているので、蚕種の貯蔵を兼ねて活性化の不足を補なう温度として用いられる(第94表)。
低温の種類 (℃) |
孵化歩合が80% 以上を示す冷蔵日数 |
冷蔵前の25℃日数(日) | |||||||||
1 | 5 | 10 | 20 | 30 | 60 | 90 | 120 | 150 | 180 | ||
7.5 | 最 短 日 数 最 長 日 数 期 間 |
30 120 90 |
60 150 90 |
60 150 90 |
60 150 90 |
60 150 90 |
60 150 90 |
90 150 60 |
60 150 90 |
60 120 60 |
60 120 60 |
5.0 | 最 短 日 数 最 長 日 数 期 間 |
30 180 150 |
60 210 150 |
60 210 150 |
60 210 150 |
60 210 150 |
90 210 120 |
90 210 120 |
60 180 120 |
60 120 60 |
60 120 60 |
2.5 | 最 短 日 数 最 長 日 数 期 間 |
60 180 120 |
90 180 90 |
90 210 120 |
90 180 90 |
90 210 120 |
120 240 120 |
150 210 60 |
120 210 90 |
90 180 90 |
90 150 60 |
以上は産卵後25℃で1日以上経過して、卵に越年性卵の特徴の現われ初めた(Y2Ba)頃から後の卵の活性化について述べたのであるが、河野(450)によれば、これより若い、産卵直後から1日目頃までの間の越年性卵を種々な温度で一定期間保護した後、25℃で催青すると、活性化が最も速いようにみえ、初期の孵化合が高いのは15℃保護の卵である(第95表)。
処理温度 (℃) |
処理後の期間別孵化歩合(保護温度25℃) | |||
55日間(%) | 56−220日間(%) | 220日以後(%) | 計(%) | |
5 7.5 10 15 20 25 |
0 0 0 15 0 0 |
0 0 3 6 3 0 |
32 40 31 11 42 51 |
33 40 35 33 45 52 |
種々な実用品種の越年性卵を産卵直後からこれらの温度に保護し、その温度における孵化を調べても、矢張り15℃における孵化歩合が最も高く、20℃、25℃
の順でこれに続き、10℃においては太平が0.1%孵化したに過ぎず、5℃および7.5℃においては孵化したものがなかった。卵を解剖してみると(大造)、0℃および5℃においては何時までたっても胚の形成が認められず、10℃においては6ヵ月後に漸く幼虫体が完成したが、15℃においては4ヵ月で孵化がみられた。河野はこの結果から、産卵後1日以内の若い卵の活性化促進に最も有効な温度は15℃であると考えているが、低温においては胚の形成が悪いこと、第95表において孵化歩合合計の最も高いのが15℃ではなく25℃で、次ぎが20℃であることなどを考え合わせると、低温と高温との中間の15℃においては、活性化と胚形成との条件が両立する結果として孵化が早いのではないかと考えられる。
一定の温度に保護してある卵については、品種による相違などはあっても、第51表や第94表によって、現在の活性化程度が大約察知できるが、実際の蚕種保護においては、種々な自然温度に遭遇するので、活性化程度の察知がむずかしい。室賀(621)は、この点につき、各種の温度の活性化効果を同一基準で評価することができれば蚕種取扱い上便利であると考えて、抑制質消耗係数を発表し
た(第96表)。
温度(℃) | −2.5 | 0 | 2.5 | 5 | 7.5 | 10 | 12.5 | 15 | 17.5 | 20 |
抑制質の 消耗係数 |
0.00 | 0.40 | 0.77 | 1.00 | 1.11 | 0.77 | 0.61 | 0.41 | 0.17 | 0.00 |
これは、蚕種の活性化は母体から卵に伝えられた抑制質が消耗する結果として起こるものであると考えて名付けたのであるが、具体的に云えば、5℃に1日おいた場合の活性化の進み方(抑制質の消耗)を1とすれば、15℃の1日では0.41しか進まないから、5℃1日と同じ活性化程度にするためには、15℃には1/0.41=2.4日強おく必要があり、また15℃に10日おいた卵は5℃に4.1日おいたのと同じ程度に活性化が進んでいると云うのである。
このような方法で大凡の見当をつけることは便利であるが、活性化の進み方は温度ばかりではなく、洗落しの刺戟などによっても影響を受け、また品種による反応の相違もあるから、これだけに頼ることはできない。
蚕の卵は休眠状態で冬を越すと考えられていることがある。例えば、梅谷(1106)は昆虫の卵態越冬を5群に分類し、蚕はアレイ形の胚の状態で越冬する第2群に属し、産卵後7−10日の前休眠期間を経て休眠(自己休止)に入り、その後2月頃までが休眠期であるとしているが、地域的な相違もあるが、2月以前に孵化可能な卵の現われることは周知の通りである。蚕種に委しい梅谷博士がこれを御存知ない筈はなく、実用上の催青期間内に全部の蚕種が孵化し得るまでに至っていないことを表現されたに過ぎないが、文字通りにこれを解釈すると間達いのもとになる。もし蚕種が完全な自己休止の状態で冬を越すのであれば取扱いは比較的簡単であるが、完全休眠卵に混じって、完全に孵化し得る卵、孵化にまでは達し得ないがある程度まで胚の発育し得る卵などが初冬期頃から出初めるために、早く活性化したものの活力を低下させず、おくれたものを追付かせて、発育を揃えることが蚕種の冬期保護上最大の課題になっている。
西郷(788)は、休眼中の卵に炭酸ガスを接触させると活性化を早めると報告した。
2 休眠の生理
A 抑制質
蚕卵の休眠現象を説明するために種々な仮説が提出されているが、その中で、抑制質の仮定(V3Bc)は蚕種保護の技術と結び付いて蚕糸関係者の常識になっており、最初、渡辺が便宜上仮定したものが実在のものとして受取られている場合も極めて多い。
木暮(406,409)は、着色卵のうちの不越年卵(再出卵)および不着色卵中の越年性卵の割合が何れも催青中の温度および光線の影響によって変化しないこと、二化性蚕および一化性蚕においては、蛹期の保護温度が30℃の場合に20℃の場合よりも越年性卵の多いこと、四化性蚕においてはこの関係が反対であること、および産卵後2日間の温度が越年性の決定に強く影響することなどから、第1越年性物質(着色性物質。渡辺の抑制質と同じと考えられる)および第2越年性物質(越年性物質)の存在を仮定した。第1越年性物質は越年性にも関係するが主として卵の着色に関係するもので、高温・明催青で生産される。最も多く作られるのは反転から気管形成までの血球分化の時期で、以後3令の終りまで次第に生産が減り、4−5令および蛹の時期においては高温・明の条件下で破壊されるようになり、この時期の低温によって生産の促進されることもない。第2越年性物質は卵の着色にも関係するが主として越年性の決定に関係する。蛹期の高温によって作られ、産卵後の高温によって破壊される。一化性蚕には第1、第2ともに多く、二化性蚕には第2は多いが第1が少なく、四化性蚕には両者ともに少ないと考えている。
梅谷は化性決定素を考えたが、これは母体から卵に伝えられる酵素である(1101)。不越性卵はこの酵素の活性によって卵細胞質の生化学的活動が持続している卵であり、この酵素が一時的に不活性になって、卵細胞質の生化学的活動の停止している卵が越年卵であると考えている。この仮定は実用との結び付きは抑制質の仮定のように一般的ではないが、この考えから出発した硬性卵、軟性卵と云う言葉は越年性の保護に関して縷々使われている。硬性卵は、産卵後、高温に十分な日数接触して卵細胞質の生化学的活動が停止し、栄養質が不溶解性になっており、低温処理による生化学的活動の回復が緩慢で、栄参質の可溶性になるのがおそい卵と云われ、軟性卵は、高温接触日数が少ないため、低温処理リこよって卵細胞質の生化学的活動が急激に回復し、栄養質の可溶性になるのが速い卵であると説明されている。生化学的活動状態とは云っても具体的に物質の動きを証明している訳ではなく、水分量の変化と結び付けて解釈しようと試みているが(Y3A)、別の言葉で云えば、硬性卵とは休眠の完成した卵、軟性卵とは休眠完成の不十分な卵である。
抑制質の仮定は蚕種保護技術の確立上、一般に理解し易い説明の根拠となり、実際上に貢献したことは極めて大きいが、越年性卵中に胚の発育を抑える作用を待った物質の存在を証明した報告はなく、これと休眠ホルモンとの関係についても見解は一致していない(X2C)。
胚培養によってこの点を調べてみると、(A)抑制質のない筈の卵から胚だけを取出し、同様な卵を磨砕して生理食塩水で抽出した培地で培養すると胚が発育する(930,931,949-951)。(B)産卵後2、3日たった休眠性卵の胚を同じ時期、および、(C)抑制質のない筈の卵で作った培地で培養しても、または(D)抑制質のない筈の卵を産卵後2、3日の体眠性卵の抽出液で培養しても、同様に発育するが、(E)産卵後30日以上もたった完全休眠卵の胚は同じ時期の卵の抽出液は勿論、抑制質のない筈の培地においても育たず、(F)完全休眠卵抽出液培地においては、抑制質を持たない筈の卵の胚も発育しないかまたは発育が非常に悪い。
(A)の発育するのは当然であり、(B)および(D)が同じように発育するのは、培地を作る操作の間に抑制質が破壊されたためであると考えられないことはない。母体から卵に伝えられた抑制質は初めは原形質中に存在し、このときは外部からの刺戟によって破壊され易く、従って人工孵化も可能であるが、やがて抑制質は胚に移行して胚を完全に休眠させ、胚に移った抑制質は、も早、外部からの卵を殺さない程度の刺戟では破壊されなくなると云う考え方([3A)もあるが、抑制質が胚の中に移った筈の完全休眠卵培地において、(F)のように(B)、(D)よりも発育が悪いことは、仮りに抑制質の1部が原形質内に残留しているものと考えても説明ができない。
(F)の場合に発育が悪いのは培地の中に抑制質が残っているためかも知れないと考えて、(A)や(B)についての経験から十分に発育可能と思われる範囲内で培地を稀釈しても発育は改善されず、ラクトアルブミンの加水分解物やアミノ酸を添加すると胚の発育がよくなった。これらの結果は、(F)の発育が悪いのは抑制質の存在よりも、利用し得る状態で培地中に存在する栄養物質の量または質の問題であることを示している。
休眠卵が活性化するのは、胚がまず休眠から醒めて生化学的な活動を始めるのか、それとも、まず卵黄質の状態に変化が生じ、これが胚の発育を誘導するのかと云う問題をめぐって、激しい論争の行なわれたことがある(549,550,1101,1102)。
上記の卵外培養の成績によれば、休眠卵においては胚も卵黄も共に発育に不適当な状態に変っていることがわかる。
梅谷(1104,1123)は、休眠卵に非休眠卵の卵黄を移注すると休眠卵の胚が発育し、トリプシンを注入しても発育の開始されることをみて、蚕卵が休眠から醒める際に、まず非可溶性蚤白質が可溶性に変化する証拠であると考えたが、食塩水を注入したり、卵を針で刺すだけでも休眠胚の発育の始まることがわかり、これは物理的刺戟によって卵細胞質の生化学的作用が活性化するのであると説明した。なお、休眠卵の卵細胞質を不越年性卵に移住しても、これを休眠させることはできなかった。
卵黄は単に栄養物質が卵内に充満しているのではなく、卵黄分割(Y2Ba)の後には、生活機能のある卵黄細胞に含まれて存在するのであるから、これを溶解する梅谷の生化学的作用も卵黄細胞の機能を通じて働く筈である。
卵から卵殻だけを除去し、生きた卵黄細胞群および漿膜に包まれた胚をそのまま適当な培地で培養すると、非休眠胚に比べれば劣るが、完全休眠胚も発育して剛毛を生じ、頭部の着色するまでになることが珍しくない(941)。これによってみると、上に述べた胚だけを取出した場合に完全休眠胚の発育しなかったのは、培養技術が未熟なために、発育開始のおそい完全休眠胚を十分に生存させ得なかったのであるうとは思われるが、また卵黄細胞をすり潰して、正常な生活機能を破壊した培地の中では、活性化その他の生理作用が進行しにくいのではないかとも考えられる。しかし、現在この方面から梅谷の考えを支持する証拠は得られず、バッタなどにおいては、卵黄から完全に分離した胚の組織片が生理食塩水中でも活性化すると云われている。
B 休眠に伴なう卵内の変化
前節で述べた培養実験の結果から、休眠卵においては、胚や卵黄の生理機能がただそのまま停止しているのではなく、非休眠のものとは著しく異なった状態に変化していることが考えられるが、このことは休眠卵における糖代謝の研究によって実証された。
休眠に伴なう蚕卵内のグリコーゲンの変化については、古くから多くの研究があるが(273-276,468,536-538,548,549,672,1169)、これらの多くはただその増減を記載するに止まり、休眠初期にみられる著しい減少を生活のために消費されるものと考え、初冬期の増加は蛋白、脂肪などから新たに作られるものと考えるのが普通であった。
茅野(76-79,81-85)は、蚕卵が休眠に入る際には、これまで昆虫においては全然考えられなかった代謝径路によってグリーコーゲンがグリセロールとソルビトールとに変化し、休眠が醒め初めるとこれが再びグリコーゲンに戻ることを明かにした。即ち、休眠は単なる生活機能の停止ではないのである。
休眠に伴なう蚕卵の生理作用の変化については、その他、酵素(40,78,84,187,191,399,664,686-688,818)、呼吸(683,684,781,785,872,893)、水素イオン濃度(148,593,594,625,965)、電気泳動像(666)、卵汁の屈折率(213)、水分(467,671)、3・ヒドロキシキスレニン(244,354)、燐化合物(80)、脂肪(670)などに関する多くの報告がある。しかし、これらの変化が休眠の完成または解消の本質に関係した動きなのか、平行現象であるのか、または休眠の結果であるのかは明かでない。
この点に関して興味のあるのは室賀、西郷らの報告である。室賀(608)は、日新種の産卵直後の不越年性卵を炭酸ガスを含む容器中に2、3日間密閉すると漿膜の着色する卵が多数に生じ、炭酸ガス濃度が2.5%に達するまでは濃度の高いほど着色卵歩合の高い結果を得た。この着色は赤褐色で、不越年性卵を11℃に20日間、または13℃に15日間保護した場合に生ずる越年性卵に似ていた。産卵したのは6−8月であったが、これを自然温度で保護すると越冬前に不時発生をして催青死卵になるものが多く、翌春になって孵化したものは1頭もなかった。人工越冬を施すと最高の9.39%の孵化を示した。即ち、極端な軟性卵と考えられるような卵が得られた訳である。
西郷(780,784)はこれを追試し、炭酸ガス濃度、処理時間および処理時期と着色との関係を調べ、最も着色を起こし易いのは、産卵後25℃で1−2日目の、胚の頭尾が、窒素、酸素によっても着色することを認めた。炭酸ガス処理によって生じた着色卵は20℃に50日間おいても孵化しなかったが、酸素消費量、呼吸商および青酸による呼吸阻害などは何れも正常越年性卵の産卵後25℃、2日目に相当する状態に止まったままで、正常休眠卵のような青酸に阻害されない呼吸に移行することがなかった。呼吸商は、正常の越年性卵においては0.70から次第に大きくなり、産卵後2、3日で、0.74、
4日目に0.76になったのに対し、炭酸ガス接触による着色卵においは0.68から増大して4日目に0.72となり、7日目以後は0.74に一定した(Y3Bb)。しかし、卵黄細胞の移動(Y2Ba)は行なわれる。
これらは呼吸障害の結果だけによるものではなく、炭酸ガスの何らかの作用によることも大きいのではないかと思われるが、産卵直後の不越年性卵を暗黒下でCO288:O212 の混合気体中に入れておくと、漿膜が赤褐色に着色し、卵黄細胞の移動、休眠期の形態での胚の発育停止が起こり、チトクロームオキシダーゼの活性およびグリコーゲン量が低下し、5、6日で休眠卵における値とほぼ等しくなった。これに対し、同じ処理を同所で行なうとこのような変化が起こらなかったから、上記の結果はチトクロームオキシターゼ作用の阻害の結果と考えられる(786)。ただ、14日間で混合気体中から出すと、直ちに発育を始める卵もあれば、休眠状態を続けるものもあって一定しないから、この酵素系の阻害は休眠を誘導する条件ではあるが、十分な条件ではないのであろうと云う。
西郷の報告は簡単な講演要旨に過ぎないが、非休眠卵の呼吸においてはチトクロームオキシダーゼが主な末端酵素として働いていると考えられること(684)、および、茅野(83)が、蚕卵内にはグリセロールおよびソルビトールの生成に関与する四つの脱水素反応があり、このための脱水素酵素は非体眠卵中にも存在するが、休眠卵においてだけ上記の多価アルコールが作られるのは、休眠の初めにある物理化学的変化が起こって末端酵素系における電子伝達をブロックし、その結果NADH2およびNADPH2が蓄積して、反応をこれらの多価アルコール形成の方向に進めるのであろうと考えていることなどと関連して興味がある。
不越年性卵を越年化させる最も普通の方法は産卵直後からの低温保護である。木暮(409)によれば、13℃に15日間保護すると最も効果があり、低温期間がこれより良くても短かくても効果が減少し、産卵後2日までは未だいくらか効果が認められたが、3日以後の低温保護(15日間)は無効であった。室賀(616)は、低温保護によって不越年性卵が越年化するのは、胚の発育がおくれるため、卵を濃く着色し得ない程度の抑制質でもその発育を抑止して、越年化させることができるのであろうと考えている。
再出卵防止のための低温保護(V3Bc)もこれらと同じ意味のものである。河合(355)は、産卵後1週間27℃に保護した蚕卵と15℃においたものとを比較して、却って前者に再出卵の少なかった場合を報告し、この場合の材料が多化性に近い大造系統であったため、普通の二化性種とは温度に対する感受性が異なり、27℃を越年性を安定させる温度として感じたのであろうと考えている。
電子顕微鏡で観察すると、休眠に伴なって胚細胞内のミトコンドリアの形態が変化して、著しく長形になることが注目されているが(554,702)、岡田(702)は休眠卵においては、小胞体が顕著な同心円状に配列すること、およびリボソームの減少することをも観察している。また、培養した卵のH3-チミジンおよびH3-ウリジンの取込みを調べ、DNA合或は休眠に入ると直ちに停止し、低温で休眠を解消させても温度を上げなければ合成の再開しないこと、RNA合成および蛋白合成は休眠に入っても長い間停止せず、100日ぐらいで非常に少なくなるが、140日では回復し始めることをみている。
RNA合成が回復しても胚は直ちに孵化機能を得る訳ではなく、休眠は徐々に解消する。
RNAの取り込みの再開は胚の後端部から始まり、福田らの観察した休眠解消の不完全な胚が特異な発育をする現象([4)と関連があるように考えられると云う。これは越年性卵における核分裂の消長(386,945)や胚培養の結果(X2A)とも考え合わせて興味のある結果である。
C 休眠ホルモン(休眠要因)
越年卵性の蚕においては、食道下神経節から越年性を決定する物質(長谷川の休眠ホルモン、福田の休眠要因)が分泌され、卵巣内で発有中の卵に作用してこれを越年化させることが福田(111,112,114,117,132-136)および長谷川(158-162,164,166,167)によって初めて明かにされた。これは我国で殆ど同時に発表された世界的研究で、これによって蚕の化性に関する考え方が一変した。ただ、この要因の分泌が脳の支配を受けており、多化蚕が不越年性卵を産むのは、神経節から要因が体内に出るのを脳が抑止しているためであると云う考え(福田)と、食道下神経節のホルモン分泌は脳の支配を受けないと云う考え(長谷川)とはなお一致していない。
食道下神経節の休眠ホルモンは神経分泌細胞から分泌されるものと考えられるが、小林(400,401)によれば、神経分泌細胞と判断される細胞は16μぐらいの小形のものから60μに近い大形のものまで種々あって、1個の食道下神経節につき80−100個ぐらいかぞえられ、品種によってもこの数に相違がある。同一母蛾の産んだ卵を2分し、一半は越年性卵を産むように、他半は不越年性卵を産むように処理し、その5令幼虫について神経分泌細胞を比較した処、数には殆ど差がなかったが、長径30μ以上の大形のものの割合は、不越年化処理を施したものよりも越年化処理を施したものに多く、2倍に近かったと云う。
これに対し、最近、福田・竹内(138,139)は、休眠要囚は、蛹および蛾の食道下神経節において、前端から約2/3の部分で腹面に近く、中心線を挟んで相対する1対の大形細胞(DF細胞)だけから分泌されると云う実験ならびに観察結果を報告した。
休眠ホルモンの抽出、精製は長谷川によって進められているが(163,164,168)、未だ精製品は得られていない。しかし、精製過程の抽出物を注射してホルモン作用に関する多くの実験が行なわれ、蚕種の立場からも興味のある結果が得られている。不越年卵性蛹について試験した結果によれば、化蛹後(27−28℃)3日目頃の注射が越年性の誘導に最も有効で、注射後5日間15℃に保護しておくと効果が一層大きかった(169)。これは、化蛹後、種々な時期の休眠性蛹から食道下神節節を除去し、蛾になってから産む越年性卵歩合を調べると、化蛹後3日までに除去したものは休眠性卵を全然産まなかったことと時期的に一致している(1173)。
越年性卵の漿膜細胞の着色は、主としてトリプトフアン系色素で、これにチロシン系色素が関与しているのであろうと云われ(247,371,373)、メラニン系色素は存在しないらしい(717)。不越年性卵の漿膜が着色しないのは、母体内で生産されたキヌレニンまたは3・ヒドロキシキヌレニンの卵内への透過が妨げられるのか(246,315,354-357,371,636,1203-1206)、あるいは透過しても吸着されないのではないか(1207)と考えられているが、食道下神経節の摘出および休眠ホルモンの注射実験によって、休眠ホルモンが卵巣内の3・ヒドロキシキスレニン量に影響していることがわかった(1170,1174)。糖および脂質の代謝も休眠ホルモンによって規定されており、越年性卵にグリコーゲンの多いのもこのためである(171,1171-1174)。
休眠ホルモンは5令壮蚕、蛹および蛾の食道下神経節のほか、蛾の頭部からも抽出され、雌よりも雄に争い。卵からは未だ抽出されていない(164,169,170)。福田・河野(137)は卵内にも休眠要因またはこれに関係のある物質が存在するものと考えている([4)。
休眠ホルモンが卵巣(特に包卵細胞)の遺伝子に作用してm-RNAの合成を促がし、これが出発点となって越年化への種々な生理作用が次ぎ次ぎに進行する(172)のであれば、このホルモンのほかに特別に胚の発育を抑制する物質の存在は必要がないように考えられるが、卵の着色と越年性とが平行するのは、3・ヒドロキシキヌレニンおよび抑制質の卵内への移行が共に化性ホルモンによって規正されるためであるとして、ホルモンとは別に抑制質の存在を考える立場もある(356,1204)。
食道下腺を化性に関する内分泌器官であるとする報告もあったが(551)、これは福田(109)および長谷川(160)によって否定された。