司会(高林): それでは、特別講演に移らせていただきます。初めに市田ひろみ先生よりご講演をいただきます。ご講演に先立ちまして、先生のプロフィールをご紹介申し上げます。お手元に本日のパンフレットを用意しておりますが、かいつまんでご紹介申し上げたいと存じます。
 市田先生はテレビのコマーシャルでよくご存じの先生でして、服飾評論家としてご活躍中です。また、市田美容室並びに市田アドプランの代表取締役社長、そして日本和装師会会長を務められ、大学の講師、書家、並びに画家としてもご活躍中です。
 これまで民族衣装を求めて世界じゅうを訪れ、アフリカやアジア、中南米の辺境の村々におきましても市田先生流のおつき合い術で交流関係を深められております。
 本日は、「世界の衣裳から見えるもの」と題しまして、先生が見てこられました世界の民族衣装と、それを通じて見た日本の絹文化について語っていただきたいと思います。  それでは先生がただいま壇上よりご入場になられます。拍手でお迎えいただきたいと思います。 (拍手)


世界の衣裳から見えるもの

服飾評論家 市田ひろみ

 市田ひろみです。1時間お時間をいただいております。といっても私の33年間にわたる20万キロの旅を1時間でというのはちょっとしんどいかと思いますけれども、絹を使った衣服を中心にお話をさせていただきたいと思っております。
 よく何カ国ぐらい回られましたかと聞かれるのですが、わからないのですと答えます。なぜなら数えていないからです。今日、一応実物を3点持ってきたのですが、例えば一番こちらにあるのは中央アジアのウズベキスタンの衣装です。でも、私が行きました28年前はまだソ連邦が崩壊する前で、タジク共和国にもウクライナ共和国にもこういう衣装を着た人たちがいたわけです。一番向こうの、ユーゴスラビアの、これはクロアチア地方のシーサックというところの衣装ですが、ここもクロアチア地方は独立をいたしました。考えてみれば、100カ国ぐらいは行ったのだけれども100以上ですねと、いつもいい加減なことを言っています。
 やはりその民族にとっては長い間暮らしてきた土地が、政治や国家の事情で線引きされて国境線が作られていって、その場所に生きなければいけないという運命があります。
 とにかくスライドで私のコレクションを見ていただきます。実は、このスライドは4ケース、320点あります。絹のだけを抜こうと思ったのですが、実は私は明日からオーストラリアに行きまして、帰ってきた翌日の月曜日に大谷大学の授業がありまして、入れ替えたりする時間がありません。ですので、とにかく木綿や草の繊維の服などもちょっと入っております。
 現物はこのような感じでして、一番こちらは当然ウズベク共和国の、ウズベク人の衣装はサマルカンド、タシケント、ブハラというところに、これは19世紀末から20世紀の初めと言われている衣装で、全部絹です(下の写真)。シャルワールというズボン、上着はクルタと申します。そして、ベールをかぶっております。レーニンのロシア革命くらいからベールを取るようになりまして、下のチュビチェイカという帽子だけをかぶっております。


ウズベク共和国

 20年以上前は、このような上質の絹のものと素材感も違いますし、色も少し違いますが、80%くらいの人はこういうものを着ておりました。形も簡単になっておりますし、こういう形で、若い人はズボンもはかないでこの上着、ワンピースだけを着ているような感じでした。ですから、昨日今日の状態はよくわかりませんが、19世紀末はこのような上質のシルクで作っていたわけです。
 『衣装の工芸』という本を私は出しました。それにはウズベクだけでもたくさんの作品を収録いたしまして、ほとんど工芸というとらえ方で、刺繍や織り、アップリケ、ドロンワークのすべてと、絹の衣装に関しては、ウズベキスタンの博物館などにあるものも含めて収録しております。
 次の真ん中の衣装は、実はこの間9月11日以降、アフガニスタンやパキスタンがたびたび電波に乗りますが、もはや滅びてしまった衣装です。アフガニスタンでも19%のハザラ人がおりますが、これはパキスタンのハザラ人の婚礼の服(下の写真)です。素材は麻ですが、チェリーピンクのところが全部平糸の絹糸です。ちょっとベールを取ってみたいと思います。

 
パキスタン北部ハザラ地方の婚礼服

 これは服と同じ絹の平糸で、ピンク色ですが、伝統的な模様です。ヌーリスタン地方でも同じような平糸の絹の刺繍を施した衣装があります。これはハザラ人の婚礼服でして、1年もかけて作ります。
 一番向こうはユーゴスラビアのクロアチア地方の中でもシーサックというところの衣装(下の写真)で、麻地に、これも絹の平糸で刺繍がしてあります。上着もエプロンも全部刺繍でして、裏表がない、裏にも糸が通っているという刺繍で、ものすごい重さです。帽子、ブラウス、スカート、エプロンが、全部です。私は1989年のソ連の壁が崩壊する年の6月にまいりました。ユーゴスラビアのサラエボの朝市で買いました。そのときには、両替をしますとこんなに貨幣価値が落ちてしまって、紙切れになっていました。ですから、こんなにすごいものが1,000ドルで買えたのです。これは今では私の宝物ですが、やはり制作に1年ぐらいかかっております。


ユーゴスラビアのシーサックの衣裳

 工芸に関しましては全部ここに、靴まで全部揃って収録しておりますので、もし資料としてご希望の方がおられましたら、受付に申込用紙を持ってきておりますので、ぜひお申し込みいただきたいと思っております。

事務局注: 市田ひろみ『衣裳の工芸−滅びゆくものを追いかけて−』求龍堂(東京)、2002年2月22日発行、8,000円

 実は、来年私の衣装の工芸の展覧会を計画してくださっているミュージアムがあります。群馬県の「日本絹の里」と横浜の「シルク博物館」、金津の「創作の森」などで計画が進んでおりますので、また詳細を何かでお知らせすることができるかと思っております。
 時間がないので、とりあえずは世界の衣装の中でどのくらいのエリアで絹が使われてきているかということをちょっとごらんいただこうかと思っております。私は降りますので。

 まず、これは現代のものではありません。清朝の衣装でして、全部絹で刺繍です。これは、上流階級の女性の日常着です。これも同じく日常着で、全部絹でして、ここは全部刺繍です。日本の着物と同じような襟袷せです。
 前の打合わせになっているのは新しいもので、比較的現代に近いものです。これは旗袍(チーバオ)と申しまして、清朝は満州族(北方騎馬民族)の国家ですので、馬に乗ったときのために前後左右にスリットがあります。これは、銀糸の綴れです。これは19世紀末のもので、官服(男性の式服)です。
 これは、少し位の低い人で、これもやはり清朝の旗袍と申しまして、五爪竜が16匹織られております。明綴れと呼ばれているものです。
 これは漢民族の婚礼服(下の写真)で、もちろん全部シルクで、銀糸の刺繍です。これも大変重たいもので、アグネス・チャンは香港で結婚式をするときにこれを着ました。頭はカワセミの羽を張った宝冠で、北京にある「明の十三陵」の1つである、定陵の万暦帝の奥さんの宝冠が残されておりますけれども、カワセミの羽を張ったものです。色直しです。これは全部絹です。


漢民族の婚礼服

 中国には12億人がおりまして、92%が漢民族ですが、あとの8%が55の少数民族に分かれております。これなどはごらんになったことがあるでしょうか。メオ(苗)族です。ここからはずっと走ります。絹を使ったものはたくさんありますから。
 これは雲南省の石林湖の近くに住んでいるサニ族です。かつては藍染め主体だった衣装が、このように時代が新しくなりますと、若い人の間からピンクやグリーンなどきれいな色を使うようになりました。アバウトなシルエットは似ていますが、全く似て非なるものだという傾向があります。段々現代服化されてきています。
 これはモンゴル族です。これも帯をしているモンゴル族です。これはペイ族です。早く走りたいと思います。他にもっといい衣装がたくさんありますから。
 私がこれを集めたときには、まだ1980年代の初めで、今のようにいいものはありませんでした。素材もひどいものでした。今は美しいものを作れるようになったけれども、オリジナルから離れたシルエットになっているというのが現状です。ほとんど昔のシルエットを使ったものです。
 これは、青海省という、中国の屋根と言われているところで、海抜4,000メートルのところにある大きな青海湖という湖がありますが、その近くに住んでいるチベット族です。ですから、チベット自治区のチベット族とは少し衣装の形が違いますけれども、日本の着物は舞踊のときに肩ぬぎというのをしますが、全く同じような装い方があったのです。これは婚礼服です。これはウイグル族です。
 これは中国のウズベク族です。若干質感が違いますが、絹だそうです(下の写真)。これはハザク族です。これは新疆ウイグル自治区のウイグル族です。中国北西部の新疆ウイグル自治区に、東西2,000キロにわたって天山山脈が走っております。ウイグル族には20種類ぐらいの種族がおりますけれども、天山山脈の南、天山南路がイスラム化したのは11世紀ごろと言われておりまして、現在もこのようなルマルというニットのベールを外出時に着けております。


中国のウズベク族

 この辺が中央アジアです。今ごらんいただいたものと同じですけれども、これはチャパンというコートをかぶっています。これは今ご紹介した衣装です。
 これも大変美しい絹の衣装(下の写真)です。これは正装です。頭のスカーフにも金・銀糸が使ってありますし、前の装飾品はもう手に入らなくなりました。


中央アジア・ウズベク族のチャパン

 これはウズベク人のコートです。これもシルクです。これもウズベク人のコートです。これは中にベールをかぶっております。まだ革命前です。これは袖を通しません。これは中に着ているワンピースです。
 これはトルクメニスタンです。トルクメン共和国です。ウズベク共和国の隣です。これはウクライナ共和国です。
 これはタイ北部、チェンマイで求めたものです。中国にいる少数民族がこちらにもおりますから。アカ族、ホワイトメオです。
 これは韓国です。婚礼服で、もちろん絹です(下の写真)。大変きれいな衣装です。


韓国の婚礼服

 台湾です。
 続いてアジアに行きたいと思います。ベトナムです。タイです。タイシルク。これはタイのシルクを産業として確立させたのは、アメリカ人のジム・トンプソンという人です。それからタイシルクというのが産業に大きく寄与いたしました。
 これはタイの伝統的な婚礼服(下の写真)だそうです。これはお金持ちだけが着るもので、注文によって作っているということでした。シルクがたくさんある国なのだけれども、若い人たちはウェディングドレスが着たいのだそうです。ですから、こういうのをわざわざ注文してくるのは、ちょっとお金持ちの人だと言っていました。


タイの婚礼服

 これはロイカトーンと申しますお祭りのときに、子どもたちが皆こういうシルクの肩から掛けているのはサバイといいますが、豪華なものを身につけております。
 これはサロン・カバヤです。インドネシアです。
 フィリピンです。テルノです。これはバナナの繊維でピニャというものです。このテルノもピンからキリまでありまして、マルコス大統領の奥さん、イメルダ夫人がマラカニアン宮殿に置いていたのは3,000着ぐらいあったらしく、普通だったら2,000〜3,000円から1万円も出せばあるのに、彼女のものは1点が100万円くらいのものもあったそうです。これはサロン・カバヤです。スカートがサロン、上着がカバヤです。
 これはバリ島の婚礼服です。これは金彩という加工がしてあります。眉と眉の間につける赤いものはビンディと言いまして、ヒンズー教徒のものです。これはロンボク島のササ族です。この辺は皆木綿ですので略したいと思います。インドネシアとパプアニューギニアの間の小スンダ列島です。まだ観光化されておりません。天理大学の考古学研究者が行っているところです。
 これはその中のスンバ島のカワング村と申します。文様をごらんください。これは人間の首です。よく首狩り族などと言いますが、実は自分たちの民族を守るために戦った勇敢な人ということで、家の前にたくさん敵の首を並べている人は勇者だと言われたそうです。そうした民族の生きてきた歴史が、そのまま文様になっているという筒状の衣装、ロウと申します。これもロウです。全部これは絹ではなくて木綿です。
 パキスタンです。これは現代のものです。これはパキスタンです。インドに近いところです。タール砂漠の近くです。
 これはパキスタンの北部です。私のコレクションの中で、パキスタンが一番充実しておりまして、シンド州と言いまして、アフガニスタン北部からパキスタンにかけて見られる衣装で、クルタという上着のここが全部、前も後ろもミラーワークで、すごい衣装です。
 これが今見ていただいたパキスタンのハザラ族の婚礼服(下の写真)で、全部刺繍です。もつれないでこれだけのことをよくやったなという感じです。パキスタンの衣装は本当に絹がたくさん使ってあります。これはシャルワール(ズボン)です。ごらんいただいておわかりになるでしょうか。平糸の絹糸です。これはお金持ちの人でしょうと言ったら、彼女の説明ではそうではなく、一般的な普通の、日本でも庶民が絹の打ち掛けを着るという感覚でした。ですから、そう特別なものではないらしいです。でも、現在は滅びてしまいました。


パキスタン・ハザラ族の婚礼服

 これに私はびっくりいたしましたが、これもパキスタンのコーヒスタン地方、コーヒスタニーという女性の服です。この衣装が、黒地木綿にピンクの絹の平糸の刺繍です。これは全部絹糸です。きょうは本当に、皆様方にすべて見ていただきたいのですが、持ってこられませんでした。先ほどご紹介いたしました展覧会のときに、現物を見ていただきたいと思います。どうしてこんなに正確に刺繍ができるのかと思うようなすごい刺繍です。そしてウエストが12メートルあって、シャーリングしてズボンにするのですが、このピンクのところは織ってありまして、ピンクの絹糸です。貧しそうな国なのにと思うのですが、絹が豊かな地方で、繊維としてかなり日常生活にあったということはこれで伺えます。
 これは1920〜1930年代のものだと聞いたのですが、実は去年、夜中にNHKで番組をやっておりまして、ちょうど峠の向こうを2人のおばさんが、この衣装で歩いておりました。あっという瞬間でしたけれども、北部山間部の非常に気候の厳しいところに住んでいるコーヒスタニーたちの中に、今も生きている衣装です。このようにシャーリングいたします。
 これはブータンで、キラと言われる2メートル四方の布を着装によって着付けていきますが、これは全部木綿です。上着は絹です(下の写真)。男性のゴです。ウオンチュック国王が日本にいらっしゃるときはいつもこれを着ていらっしゃいます。


ブータンのキラ

 これはネパールです。これは絹ではありません。
 インドに行きますと、絹の服はあふれるほどあります。人口は11億人ぐらいいるらしく、22の州に8マイルごとに言葉が違うと言われているインドでは、多様な衣装があります。ほとんどが絹でして、デリーにいるすごいお金持ちの、私の知っている人のお家に招かれていきました。メイドさんや庭師さんなどを含めて30人ぐらい人がいるのです。そのおばあさんのお部屋に行きましたら、やはり最高級のこのような衣装が400枚あると言っていました。全部絹です。結婚している人は頭からかぶりますし、未婚の人はこのように肩から掛けます。


インドの衣裳

 これはサリーを着る前の少女服です。私が思いますに、インドはカースト制度がありました。ガンジーが独立した後、カースト制度を廃止したのですが、そのカーストの中に「父親の職業を世襲する」という一項目があります。靴屋の息子はお父さんと一緒に靴の修理をしながら靴の作り方を習ったり、織り屋さんの息子がお父さんと一緒に機の前に座って織物を習ったりする。つまり、そうすれば、学校に行けなくても職業で何とか生きていけるということが言えると思います。ですから、カーストという制度はなくなったけれども、そういう生活習慣は生きていると思います。インドは本当に工芸の国でして、私の衣装の中にもすごい衣装がたくさんあります。
 これは1930〜1940年代の絹だそうです。精緻をきわめた刺繍がしてあります。
 これは、ラジャスタン州で、山辺知行先生とご一緒に行ったときに途中で見つけた衣装で、泥水でさらしている更紗です。この辺の人は、みんなこのような底辺が15メートルもあるようなギャザースカート、これは木綿の更紗です。そしてチョリという小さなブラウスのようなものを着ておりますが、その上からこうして、後ろが涼しいのです。現在は、これが小さなブラウスに変わってしまったわけです。
 こうして、総絞りのベールです。これも木綿ですが、大変細かい絞りです。これは日常着です。これもインドの衣装でパンジャブドレスの現代版のようなものですが、絹です。今はほとんど日常的に着られておりますが、ちょっとよそ行きかなという感じです。
 インドというのは、ヒンズー教、イスラム教、ジャイナ教などいろいろな宗教がありますが、イスラム教の人が外出のときに使うブルカです。
 これはインドの現代の婚礼服です。ガガラ・チョリと申しまして、スカートがガガラ、上着がチョリです。3年くらいかかっているのだそうです。スパンコールの刺繍、そしてモール、とても重たい衣装です。すそに金モールが張りつけてあります。美しい衣装ですね。
 これが昨年9月11日から盛んに流れました、アフガニスタンです。1973年にザヒル・シャー国王が失脚いたしまして、私は1974年にまいりました。まだ原理主義は来ておりませんでした。1979年にホメイニ師が亡命先のパリからイランに帰ってきて革命を行い、原理主義が台頭したわけです。私が行きました28年前は、チャドリ……最近はブルカと呼んでいるようですが、当時は緑が流行しておりましたが、今はこの水色が流行のようですね。目のところが網のようになっております。イスラム国家ですので、外出のときにこれをかぶるようになっております。
 これは絹ではありません。化繊です。
 アフガニスタンです。クーチーと言われる遊牧民です。
 イランのチャドル(下の写真)です。半円形です。これはイランのテヘランから600キロほど南にあるイスファハンという町の衣装です。


イランのチャドル

 これは絹です。これは拝火教(ゾロアスター教)徒です。やはりゾロアスター教徒は、5,000人くらい今もいます。有史以前からある宗教です。
 これはトルコです。ボスポラス海峡の近くの、古い衣装です。これは、トルコのブルサというところの衣装です。
 これはスコットランドのキルトです。
 これはフランスです。これを見ると、恐ろしいと思うのは、現代お祭りなどで着られているのは、ここは全部刺繍なのです。ところが私が北西フランスのロリオンというところで、刺繍を着ている人にわけてくれと言うととんでもないと言われました。どこに売っているのかと聞いたら売っていないと言われました。今はこういうふうに油絵のようにペインティングで伝統的な模様を書いておりまして、刺繍の衣装はありません。
 8月16日の聖母降誕祭には、みんなが民族衣装を着て、教会から海岸までパレードをしております。これはポンラベというところの衣装ですけれども、刺繍糸とエプロンは絹です(下の写真)。

 これはオランダです。木綿とウールです。オランダ、マルケン島です。
 これはスイスです。これはエプロンが絹だというだけです。
 オーストリア、ドイツです。これはスウェーデン、レークサンド地方に行ったときに注文して買ったもので、ここには夏至祭というのがあるのです。夏至祭のときには、村人全員が民族衣装を着ます。そして「メイポール」というシラカバの高い木が広場に建ててあって、そこで民族舞踏をします。私は世界じゅうを歩いて、民族衣装が一番高いのが北欧です。でも、必ず夏至祭には全員が民族衣装を着ます。
 ロヴァニエミ、サンタクロース村があります。これはスカンジナビア半島の北緯66度以北を北極圏と呼んでおりまして、かつてはラップランド(ラップ人の土地)と言っておりました。しかし、これが差別用語であるということで、今はサーミ(サーメ)と呼んでおります。エスキモーではいけなくてイヌイットになったというふうに、文化としては全く昔と変わっておりません。
 ただ、1年のうち半分は闇に閉ざされているところですので、胸にリスクというブローチをつけておりまして、これが太陽をシンボリックにあらわしております。私は高いものを買えなかったのですが、直径20センチぐらいのリスクを持っている人もおります。
 夏の服です。これはスウェーデン、ストックホルムです。これはノルウェーのハルダンゲンです。昔の形は、注文して何ヶ月かたって送られてきまして、税関でひどくしかられました。60万円くらいするらしいのですが、別送品と書いていなかったものですから、うっかり忘れておりまして。胸当てのところに刺繍やビーズ加工がしてあるのです。全部アコーディオンプリーツですから、見るからに高いものに見えたのでしょうか。
 これはブルガリアです。ウールばかりです。これが先ほど見ていただきましたユーゴスラビアのクロアチア地方にサラエボという町がありまして、その南のシーサックというところです。
 これもクロアチアです。でも少し町が違います。これはルーマニアのブラショフというところで、ドラキュラのお父さんのお城があるところです。
 東欧は本当に民族衣装が豊かです。ルーマニアの首都、ブカレストのブンディダというところに行けば、各地の民族衣装が全部そろいます。
 これはハンガリーです。マチョー地方です。
 これは私の宝物でして、ハンガリーのマチョーの婚礼服です。ブダペストで帰る前にぶらぶら歩いていたら、ほかの衣装があったので中に入ったら、そのような衣装の研究をしているならこういうのはどうだと言って、中から段ボールを持ってきまして、表に直行してばたばたとほこりを叩いて、中に持ってきて開けて見せてくれました。1930〜1940年代に作られ、戦争のために着られることがなかった衣装です。アコーディオンプリーツを抑えてある糸もそのまま、切ってありませんでした。切らない方がいいと言われましたので、アコーディオンプリーツは今ならプレッサーを使うのですが、これはみんな糸で、1センチ間隔で折り目のところを縫っていって巻いておいて、3カ月ぐらいたつとアコーディオンプリーツができます。
 これを見ていただくとわかるように、ピンクの木綿の糸が見えますでしょうか。これでアコーディオンプリーツを作っております。現在もこのピンクの糸は切っておりません。今度展覧会をするときにもピンクの糸を切らないで、そこを見ていただこうと思っております。
 これはハンガリーです。南の方です。これはポーランドです。ポドラスキーというところで、全部ウールです。これはスペイン、アンダルシア地方のフラメンコの衣装です。
 これはポルトガル北の方、ミニョ地方です。世界じゅうの民族衣装、婚礼服で黒はここだけでしょうか。これはヴィアナ・ド・カステロというポルトガルの一番北の町です。そこで着用されていた婚礼服です。今の若い娘さんは、みなウェディングドレスを着たいのだそうです。
 これはギリシアです。絹です。


ギリシャの衣裳

 突然北アフリカにまいりますが、アフリカの西の端、モロッコです。国の宗教がイスラム教です。大体年輩の方はリタムというのをしておりますが、若い人からこのような顔に着けている布を外しております。モロッコはスンニー派ですから、それほど戒律は厳しくありません。シーア派が戒律の厳しいところです。モロッコも首都のラバトやカサブランカなどは、現代服に移りつつありますが、フェズやマラケシュなどは、やはり全員が民族服です。
 これは婚礼服(下の写真)ですが、頭の飾りは全部銀で、服は全部絹です。中のものも全部です。私が欲しそうな顔をするものですから、すごく高い値段を言うのです。どうも顔に出るらしいのです。一生懸命「別にこんなのいらないよ」と言いながら、心は欲しいと思っているので。


モロッコ・トフレットの婚礼服

 トフレットというサハラに近い村の婚礼服です。フェズの婚礼服です。ケラデルムーナ、これはバラの産地です。
 これは水売りで、いらした方もいると思いますが、ヘナという植物を乾燥させた粉をレモンで溶きまして、紋紙で模様をかく習慣が北アフリカ全体にあります。
 この一番左端がヘナです。最近日本でも若い女性が頭の色を変えるのにヘナを使っております。右の方はクホル(アイライン)です。バブーシュ(モロッコの靴)です。
 アラビアのロレンスなどでごらんになった方もおられるかと思いますが、トワレグ族、サハラ一帯のブルーメンと言われた人たちです。服は絹ですが、藍染めの木綿のシャシという布で頭を巻いております。かつては砂漠を行くキャラバンを襲っては略奪を繰り返していた人たちですが、今は普通の市民です。


サハラ・トワレグ族の衣裳

 エジプトのガラベイヤです。私はエジプトが好きで4回ぐらい行っているのですが、やはり国の宗教がイスラム教でして、身のかざりを見せないということで、髪の毛も隠しております。これは去年の4月に行ったときに買ったものです。
 男性のガラベイヤです。南の方に行きますと、ヌピアと申します。かつてはナイル川上流にヌピア王国がありました。そのヌピア人の衣装です。顔はもっと真っ黒でぽちゃっとした人たちです。これはチュニジアです。サフサリです。


チュニジアの婚礼服

 これはチュニジア北部の婚礼服です(上の写真)。全部絹です。金糸のチョッキがなくなって、今はこのようにしているのだそうです。これも大変きれいなチュニジアの「入れ墨の衣装」といいまして、色直しに着た衣装です。しかし、下のパンツのドロンワークといい、上の絹の上の刺繍といい、これはミュージアムで見たもので、ある人のつてで買い求めたものです。普通にはちょっとないかもしれません。
 これはアルジェリアです。アルジェリアも社会主義国家でありながらイスラム国家でして、目だけを出して、ラジャールというものをつけております。私がここに行きましたのは、1977年8月で、ちょうどそのときはラマダン(断食月)でした。日が明るいうちは飲まない、食べない、吸わないですから、味見もしないので、お料理の味が少し違うと言っておりました。
 アフリカのソマリアです。マサイです。これは木綿です。これは実際にはマシパイ(ネックレス)で、マサイは30万人ぐらいいる遊牧民族ですが、ウシの血と牛乳を混ぜて温めた飲み物が主食です。ブルーは雨期が終わった後緑が芽吹くころ、ウシたちのごちそうなのです。ですから、生きていく上で一番大切な赤、白、ブルーを使ったのがオリジナルです。それも息子の割礼のときになりますと、黒いスカートにマンゲッタという黒いビーズに子安貝を張りつけたものをつけます。大統領が民間でしてはいけないと言ってはいるのですが、彼らは病院に行くための日常着、現代服がないため、今なお割礼が行われています。
 アフリカンドレスです。板締め絞りです。これは木綿です。これはズールー族です。おっぱいを出しています。
 この辺には絹はありません。これは西アフリカです。ナイジェリアの衣装です。コートジボアールです。ブルキナファソも絹ではないので飛ばします。
 これはカナダです。これはアメリカ、禁酒法時代(1920〜1930年代)の服です。絹のジョーゼットにビーズです。
 リッチモンドから大西洋の方に行ったところに、ウィリアムズバーグという民族村があります。初期のジョージアの衣装です。これはアメリカの先住民族のナヴァホです。これが初期のムームー(ミッショナリー・ムームー)です。キャプテン・クックがハワイを発見したときは皆裸でしたから、宣教師が着せた服です。
 これは800年くらい前のインカの衣装です。男性用の上着です。綴れです。メキシコは300年間スペインの統治下にありましたから、キリスト教になりましたし、言語はスペイン語です。しかし、昔ながらの貫頭衣が生きています。これは全部ウールです。リボンもスペインと共に入ってきたそうです。
 メキシコです。これは全部刺繍です。メキシコの太平洋岸、オワハカ州の南、アカプルコの少し南にあるテワンテペックの衣装です。ビロードにウールの刺繍ですから、絹は使っておりません。
 メキシコは7〜8回行っております。あとで秋山先生のお話があるかと思いますが、メキシコの太平洋岸、アカプルコの南200キロぐらいのところにドン・ルイス村がありまして、そこからマルドナルド海岸に行きます。12月から3月までアクキ貝という貝が捕れます。その内臓の分泌液でミステカ族はスカートを使っております。コチニール、藍、アクキ貝の横段のスカートです。
 グアテマラです。ここはマヤ文明の流れを汲んだ織物の豊かなところです。サンアントニオ、サカテペキスという婚礼服です。
 これはパナマです。パナマの大西洋岸に3万5,000人ぐらいいるクナ族です。モンゴル系の人々ですが、そのブラウスが重ねアップリケです。これはパナマです。今は注文制作になりました。このポイエラという衣装は、麻地に木綿のアップリケ、ドロンワークです。私が持っているこれは今や宝物になりましたが、エマヌエル・デレオンさんという、私のような着物研究家の方がいらっしゃいまして、その方に分けていただいたものです。制作に1年かかりますので、今では注文制作になったそうです。
 これはペルーです。1532年、フランシスコ・ピサロにインカは滅ぼされましたが、現在ケチュア語を話す人々がインカの末裔と言われています。帽子の裏側が赤いのが未婚の女性、既婚の女性は黒です。
 これは、マンタロ川と申しまして、ペルー南の方のインディオです。
 これはボリビアです。アイマラ族と言います。ボリビアは海に面していない国で、海抜3,000メートル、チチカカ湖という琵琶湖の12倍もあるような湖があり、トトラという芦舟が若干残っております。胸に魚のブローチを止めておりますが、これはトポペスカードと言います。つまりチチカカ湖で捕れるマスが富の象徴なのです。アイマラ族の結婚式の衣装です。同じ形で白です。
 エクアドルに続いて、これはコロンビアです。カリブ海に面したカルタヘナというところで、黒人の衣装です。
 これはブラジルです。これは持ってくるのが大変でした。3年ほど前に日本・ブラジル修好100年で、京都の和装振興財団80名でまいりました。そのときに、ブラジルからちょっとご褒美をいただきまして、同時にこれもいただきました。ブラジルと言えばリオのカーニバルですが、その中心となっているバイーア地方を代表とする衣装です。これはペチコートが少ないのです、直径4メートルぐらいになります。


ヨルダン・ベドウィンの衣裳

 突然ですが、アラビア半島です。ヨルダンのベドウィン(遊牧民)です。刺繍もクロスステッチも絹糸です(上の写真)。意外にアラビア半島の北では絹が使われております。これは実は、世界最大の衣装です。1960年代ぐらいまで、ヨルダンのアンマンの北30キロ、サルト地方で着られていた木綿の服です。身の丈3メートル20〜50あります。そで丈は2メートルあります。これを見ていただけば長さや大きさがわかりますね。こうしてブラウジングをして着ます。片一方のそでをベールに、もう片方を腕に巻きます。
 3〜4年前とその翌年、続けて行ってこれを探してきたのですが、骨董的価値はゼロです。ベドウィンの刺繍の方が骨董的価値はありますが、巨大さにおいて私には垂涎の的でして、長い間探していた衣装です。いなかの方に行ったらおばあさんがこれを着て歩いているよなどと言われたものですから、それを信じて車でぐるぐるとサルト地方を回りましたが、考えてみたら砂漠に雪が降る季節でしたから、そんなにおばあさんがこちらの思い通りに歩いてくれるわけがなく、結局着姿は見ておりません。
 これはシリア砂漠の東の方のサラケップというところの衣装です。これも大変ですね、全部クロスステッチですから。これは全部木綿です。パレスチナにかけては全部この衣装です。
 これはアラビア半島のペルシア湾岸、カタールです。カタールやオマーン、アラブ首長国連邦は、電気・ガス・水道・電話がただ、税金はないという国ですから、いかに石油で潤ったか。20年前までは砂漠にテントを張って暮らしていた人々が、急に石の家に住むようになったわけです。
 カタール。アル・ジャジーラがゲリラのメッセージを送っております。これは若い人たちの間から大変おしゃれになってきました。イスラムの国と言えども流行があるようです。アラブ首長国連邦です。
 これはフセイン大統領から京都の市会議員がいただいたものをいただきました。出所はイラクのフセイン大統領です。
 これはパレスチナです。ジャファーという内陸の衣装です。
 これはオマーンです。婚礼服です。男子服です。
 イエメンです。アラビア半島の南西端の国です。GNPは下から数えた方が早いくらいです。イスラム国家なのですが、外出のときにこのような絞りの8つついたものを頭からぶら下げています。マフムークといいます。これの意味についてはマフムーク屋のおじさんも知らないと言っておりました。昔からこのようにしてきたのでしょうか。
 これは現代服です。マフムークではなく、黒い顔布をつけております。これが婚礼服です。イエメンの首都、サナーの婚礼服です。アクセサリー代の方が高かったのですが、これは絹の衣装です。


イエメンの婚礼服

 こうして、外出するときにはマフムークを着けると言っておりました。
 これは信じられないくらい細かい刺繍ですが、サナーの南にあるホカリジャという村の日常着です。この美しい刺繍は、黒地に白い絹糸で全部刺繍がしてあります。こういうふうなことができるということは、養蚕がこのアラビア半島に豊かにあったのではないでしょうか。
 これは婚礼服です。イエメンの紅海沿岸のティファマ地方の婚礼服です。これは夏の現代服、イエメンです。男性服です。
 33年間で20万キロぐらいは歩いたのですが、伝統的な衣装には3つの残り方があると思います。日常的には現代服で、何かのときに伝統的な服を着る。日本やヨーロッパなどはそうでしょう。そして、アメリカの場合は、1920〜1930年代にココ・シャネルやポール・ポアレというデザイナーが民族服を現代服に変えてしまったのです。
 もう一つのエリアというのが、日常的に現代服がなくて民族服だけのエリアということでしょう。日常的に民族服しかないところを私は追いかけて歩いたわけですが、この33年間に既に滅びてしまった衣装もあります。
 では、どうして根強く残っている衣装があるのかというと、1つのは、文明の度合いです。現代の情報、現代服が入ってこないという文明の度合い。それから、そのような衣装でないと困るという気候風土です。
 最後に、きょうお話ししたいのは、イスラム圏です。イスラムというのは、日本から考えるととても遠い宗教で、一番遅くにやってきた宗教なのです。タイムライフ社が20年前に出したアーリー・イスラムの本を読みますと、当時は4億5,000万人と書いてあります。ところが、昨年あたりから10億人と書いてあります。イスラムの人口は急速な伸び方をしております。
 どうしてこんなに多くなったのでしょうか。では、どうしたらイスラム教徒になれるのかというと、「アラーは唯一絶対の神である。マホメットはアラーの使徒なり」。これを誓約すると言うと、もうイスラム教徒なのです。だから、簡単にイスラム教徒になれます。赤ちゃんを抱きながらお母さんが宣言すると、その子どももイスラム教徒になると言われています。
 紀元570年ごろ、キリスト教や仏教などよりずっと遅くにやってまいりました。アラビア半島のジェッタというところにマホメットが生まれました。マホメットが40歳になったとき(紀元610年)、アラーの神の啓示を受け、アラーの神の教えを伝える伝道者になりました。
 例えば、私たちがお寺に行きますと、どのお寺にも仏像がありますし、キリスト教でもどの教会に行きましてもキリストの像があります。しかし、イスラムというのは偶像が禁止されておりまして、いわゆるメッカ……サウジアラビアのジェッタから50キロほど行ったところにあるところに、カーバ神殿があり、その中に隕石と言われているのですが、大変巨大なもので、周りは黒いベルベットで覆われているようなところです。そこには女性がお参りすることはできません。イスラムというのは徹底的な女性蔑視の宗教です。宗教というか、政治、文化、信仰というものの宗教ですから、心の問題だけではないのです。
 唯一絶対の神ですから、どこにいても、つまりオランダのイスラム教徒はサウジアラビアのメッカ、つまり南を向いて礼拝するし、インドのイスラム教徒は西に、モロッコのイスラム教徒は真東に向いて礼拝します。モスクにまいりましても偶像は一切ありません。メッカの方向を指すミヒラープ(スペイン語でキプラ)があるだけです。それに1日に5回、コーランを唱えながらお祈りをします。
 遠くアラビア半島やアフリカにまいりましても、朝暗いうちに最初のお祈りの呼びかけがあります。今はマイクを使っていますが、それがない時代には「みんなー、お祈りに行こうよー」という半音階の呼びかけ(イマーム:導師)が聞こえます。それを聞くと、ああ遠いところに来たなといつも思います。
 モスクは男性だけですが、最近は女性だけのお祈りの部屋もできているモスクもあります。イスラムの人たちは、皆コーランを唱えながら1日に5回礼拝をいたします。そのほかに喜捨(貧しい人には施しをする)、イスラム歴というのは太陽暦より11日短く、365日はないのです。また、イスラム歴の9月は断食月です。白糸と黒糸の区別がつくようになってから、夕方、白糸と黒糸の区別がつかなくなるまで、つまり、昼間は食べない、飲まない、吸わないのです。また、一生に1回はメッカを訪れるなどいろいろな戒律があります。
 コーランというのは、マホメットが一生懸命に伝導していた時代にはなかったのですが、彼が亡くなってからアラビア語で書かれました。その中には、私たちが奇異に思っている、「等しく面倒を見ることができれば奥さんを4人持っていい」とか「離婚するときには男の人が離婚すると3回叫べば離婚が成立する」とかということがあります。
 私たちから見れば、7世紀の宗教が今に信仰されているというのは不思議な感じがします。コーランの中に「女の信者にも言っておやり。女性は自分の身内以外の男性の前では慎み深く目を伏せて、陰部を大切に守り、胸には覆いを掛け、身の飾りを見せてはいけない」と書いてあるのです。つまり女性の美しさを全面否定するものですから、身の飾りの一つに髪の毛も入るのでしょうか。だから、エジプトなどは完全に髪の毛も中に入れております。家に帰れば脱いで、外出のときに必ずつけるわけです。
 ですから、イランでも前のレザ・パーレビ国王が女性解放のためにベールを禁止いたしましたが、王様の命令よりも宗教の力が強いのです。アフガニスタンでも今のザヒル・シャー国王のお父様の時代にチャドルを禁止いたしました。でも、宗教の力の方が強いのです。特にイランの場合はイスラム原理主義(戒律が崩れてしまったイスラムをもう一度元に戻そうという主義)でして、ホメイニ師が帰ってきてからは、戒律が一層厳しくなってしまいました。ですから、女性は海水浴などもできませんし、肌を出すことは特にできなくなりました。
 ですから、衣装が残る理由は、私の調査によりますと3つあります。文明の度合い、気候風土、宗教という3つの理由で、イスラム圏はこれから先も、このようなベールを伴った衣装が着用されていくでしょう。これはほとんど変わらないであろうということは想像できます。
 しかし、南アフリカのコーザ族や、ちょっときょうは裸ではなくてTシャツを着せておりましたが、南アフリカ共和国のズールー族の一種族、セル族の少女の礼服は、バケツ1杯のビーズを使います。胸当てから頭のバンド、イヤリング、腕輪、スカート、バケツ1杯もビーズを使います。私はそれを探して行ったのですが、もはやTシャツとジーンズになっておりました。アメリカのコレクターが日本円で5万円ぐらい出すと、貧しい人たちというのは、2年分ぐらいのうれしさで渡してしまうのです。ですから、村に残らないだけではなく、民族の遺産としてのそのような装飾品や衣装が段々なくなっていくのです。
 この中に台湾のタイアル族の、全部が貝のビーズでできた衣装があります。今はちょっと出てこないので、あとで皆さんで見てください。この本が出てしばらくして、台湾のある方から電話がかかってきました。どうしてですかと聞いたら、台湾にもこれだけびっしりと貝のビーズで覆われた衣装がないので、、台湾に里帰りさせてほしいというご依頼でした。だめです、来年展覧会がありますからと言って、今はとまっています。
 工芸として見ると、かなりすごいものが、各民族が伝統的に大切にしてきているものがあるのです。では、着物はどう位置づけたらいいかといいますと、私は着物は別格だと思います。きょう見ていただいたものは、全部手仕事ですから、それなりの工芸の価値があります。
 しかし、私たちの着物は白い布、刺繍、絵をかくこと、絞ること、みんな生涯一職人と言われている一筋の道を歩いた人によってなっています。ですから、このような伝承だけの衣装に比べれば、日本の衣装は工芸性、美術性、つまりそこにファッション性があるから、私は守り伝えられ、あるいは愛され、これからも着られていくのではないかと前から話しております。
 というのは、こういうものは伝統的な文様ですから、ちょっとデザインを変えようということは絶対ないわけです。しかし、日本の着物はいろいろな流行を作ったり、時代に合わせた色遣いをしたりという意味では、ファッションとして捕らえていったらいいのではないかと、私はいつも言っております。
 そろそろ時間ですが、私は仕事は全部着物です。来年1月から京都迷宮案内というのがまた始まりますが、全部自前の衣装を着て出ております。あれは大変人気がありまして、視聴率が17〜18%出てしまってやめられなくなってしまったそうでして、また今撮影をしております。
 また、私は長年お茶のコマーシャルをしております。そのほか、20種類ぐらいのコマーシャルをいたしましたが、11月8日ぐらいからローソンのおにぎりのコマーシャルが、2週間ぐらい全国にじゃんじゃん流れます。
 とにかく私の仕事の範囲では、着物の宣伝をできる限りやっていこうと思っております。それと同時に、世界じゅうの民族達が長い間守り伝えてきた衣装もまた、国際化の中でそれぞれの異文化をお互いに尊重すると申しますか、いろいろな文化があるということを知っていただくために、これからも紹介していきたいと思っております。
 大変はしょりました説明でありましたが、ご清聴ありがとうございました。どうもありがとうございました。(拍手)

司会(高林氏): ありがとうございました。ただいまは、市田先生より世界じゅうの絹を中心とした民族衣装につきまして、たくさんの資料を見せていただきまして、先生の絹に対する思い、また、日本の着物に対する熱い思いを語っていただいたところです。  先生には本当にご多用の中を遠くまでお越しいただきまして、厚く御礼を申し上げたいと存じます。また、先生にはコマーシャルの中でお目にかかりたいと思います。よろしくお願いいたします。  では最後に、拍手で先生をお送りしたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)  それでは、機材の準備がありますので今しばらくお待ちください。


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