パネルディスカッション
地域に息づくシルクの文化と技術
パネラー
田島弥太郎(群馬県立日本絹の里館長)、岡 正子(岡正子デザイン・オフィス)
三友宏志(群馬大学工学部教授)、小泉勝夫(シルク博物館部長)
田茂井勇治(織元田勇 織染ギャラリー代表)、森島純男(織物参考館“紫”館長)
司会:北村實彬(農業生物資源研究所企画室長)
北村:農業生物資源研究所の北村でございます。どうぞ、よろしくお願いいたします。
今、司会の方から、紹介がありましたように、「地域に息づくシルクの文化と技術」
というテーマで、パネルディスカッションをやるわけですが、テーマが大きすぎて、しかも、充分な時間が取れませんので、取り立てて、まとめということはしないで、時間の許す限り、意見交換をしてみたいと思っています。
そうはいっても、少し、事務局の方と色々ディスカッションした方向のようなものも、2つほどは用意しましたので、紹介してみたいと思います。これは、パネラーの皆さんには、あらかじめお伝えしてあります。
第1点は、シルクサミット開催の経緯とも関連することですが、先ほど、嶋崎先生の方から岡谷で開かれましたシルクミュージアムサミットのお話がありました。その時に、日本特産農産物協会の理事長をしておられます西尾さんに記念講演をお願いしたわけですが、その中で西尾さんが、例えば、静岡の金谷のお茶ですとか、川越の芋とか、和歌山のいわゆる南光梅とか、富山のチューリップ、奈良の柿とか、各地に特徴的な産業を伝える小さなミュージアム、あるいは資料館のようなものの紹介をされながら、産地と技術開発と、その街に文化があるということとは、非常に密接にリンクしているという話。それから、これからの日本では、いわゆる地域、地域の個性派の農業というのが生きていく時代ではないかと、まさに、その中心にシルクがあるのではないか、頑張って欲しいというようなお話がありました。
それから、このシルクミュージアムサミットをやってみようかなと思った、そもそものきっかけは、シルクが斜陽だからとか、そういう意味ではなく、実は蚕昆研のホームページなどを通じて、色々なところから問合せがありました。例えば、子どもに蚕を飼わせたいが、どこに行ったら種が入るのかとか、あるいは、友達と趣味で工房をやっているのだが、色々な種類の繭が手に入らないとか、学校教育で使う蚕の入手先を教えて欲しいとか、色々な問合せがあるわけです。
これらの多くは、例えば、養蚕農家と生活者、あるいは、我々研究者との情報交換の場がきちんとできていれば、それほど難しくない問題だと思われるのですが、そういうことを考えてみると、なんだか情報交換の場を作った方がいいのではないというようなことを思ったわけです。それで、そういう色々なニーズを持っている生活者と、それから、生産活動に携わってらっしゃる方との間の、どこかで接点をつくる、その役割を各地にある博物館や資料館が果たしてもらえないだろうかという、そういう問いかけをさせていただいたところ、全国にある50くらいの博物館、資料館の方から、たくさんの賛同をいただいて、それで開いたのが第1回目だったということです。
ですから、そういう地域の中での技術と文化というものが、生活の中で連携して、1つのリンクを張っていくことができないだろうか、先ほど、どなたかの話にありましたが、例えば西陣の着物屋さんから、糸、織り、染め、それぞれの工程に向かって、スター状に人のつながりがあるのではなくて、お互いがネットワークでつながっていくような仕組みというのが、これからできないだろうかというので、地域の中での技術と文化というのを、書かせていただきました。
それから、2点目は、例えば、JAの甘楽富岡では、朝取り野菜ということで、生産者と生活者とが、密接にリンクするような取り組みが最近、生まれていると。そういうものが、必ずしもシルクの世界では、見えないということを感じています。また、この群馬県を例に取りましても、いろいろな歴史的な技術なり、文化遺産もあるのに、先ほどからでているように、シルクが非常に厳しい状況にあるというのは、なぜだろうかと……。そういう1次産業、2次産業、3次産業との連携、生活者との連携というのは、可能だろうかという点も少し、議論してみたらどうかなというような、そういうつもりで、この題を作らせていただきました。
そういう論点に必ずしもとらわれる必要はありませんが、パネラーお1人づつの自己紹介も兼ねて、1人4分ほど、まずお話いただいて、その後で、先ほどの岡さんの方からも、後ほど、また議論を、という話がありましたので、引き続きやっていきたいと思います。
まず最初に、地元の群馬大学工学部の教授をしておられます、三友先生から少しお話をお願いします。
三友:ただいま、ご紹介預かりました、群馬大学の三友でございます。本日、このような場にご招待いただきまして、誠にありがとうございました。
まず、それでは、私の方から、話題提供というほどにはいかないのですが、桐生織物についての歴史と伝統、それから、後は、後継者教育・養成の歴史、それから、桐生織物の現状をご紹介して、あと、絹そのもののいろいろな新素材の開発の方向、そのような技術面の話題も提供させていただきたいと思います。
10分くらい、4分くらいですか?そうですか?それは、ちょっと、予定が狂いました。10分のつもりで用意しましたので、ほとんど、一番後ろの方の話だけになるかと思いますが、まず、はしょって進めさせていただきます。
桐生織物の歴史というのは、日本の中で、西日本からだんだんと東へ織物は移って参ったのですが、大体、8世紀の半ばに、白滝姫伝説というのか、あるいは、仁田山、その辺の伝説がありまして、それから、桐生織物というものが、盛んに始まったと。それで、途中で、新田義貞とか、徳川氏とかの戦旗、それらに利用されました。あとは、明治に入ってから、富国強兵に基づいて、桐生織物というのが、飛躍的な発展をとげまして、もっとも桐生織物が盛んになった時というのが、大体、戦前の昭和16年くらいかと思われます。それ以降は、だんだんと、残念ながら衰退の方向に向かって現在まで来ております。
織物技術教育という面では、これは桐生町立の織物学校というのが、明治29年に開設されましたが、国の政策として、大正4年に官立の桐生高等染織学校、これに昇格させております。それと同時に、大正8年には、県の繊維工業試験場の前進であります、検査所、これが設置されております。桐生高等染織学校は、昭和19年に桐生工業専門学校、これに昇格いたしまして、更に昭和24年、戦後ですが、ここで群馬大学工学部と昇格しております。後は、平成元年に実は工学部は大学院の博士課程を設置いたしまして、それから、それまでありました繊維関係の繊維高分子工学科、これが実は国の方針で、バイオ関係の学科になるようにということで、生物化学工学科、こちらに改組されました。全国にも、繊維系学科、9大学あったわけですが、学科としては、現在0の状態でございます。
桐生市の今の繊維産業の状況がここにございますが、昭和40年とか、45年とか、戦争前後、この辺では、過半数くらいの出荷額を占めておりまして、産業としても、7、8割の事業所数を占めていたと思います。それが、平成7年までのデータですが、事業者数は、ここにはございませんが、大体50%、それから、従業員数が30%、出荷額にいたりましては、全体の13%くらいにまで、落ち込んで来ております。これに反比例して増えてきているのが、桐生市の産業では、金属関係の産業でございます。その繊維、あるいは、シルク関係の産業をどういうふうに興していくか、盛んにしていくかということが、課題として残るわけですが、1つは、繭とか、生糸の生産。これは、田島先生のお話でもございました、品種改良等を含めたものですが、方向としては、結局は、工業化のような形にして、やはり、生産コストを下げて、外国との競争に太刀打ちできる状況にしていく必要があるのではないかと。ここで、掲げましたのは、ですから、農業的な生産方法と、工業的な方法、これの融合というのが、将来起こってくるのではないかと考えられます。更に、高機能化というものを当然、この生糸に付与していく必要がある。実際、色々な機能が付与されているわけですが、もう、1回掘り起こして、更に化学処理、あるいは物理的処理等で高機能化を付与するというのが、必要だと思います。
織物に関しては、結局は、低価格帯というのは、海外の生産に任せざるをえない。高級品、天然志向、健康志向、更に言いますと、先ほど岡先生からお話にありました、快適性、アメニティです。この辺の期待を担っておるのが、絹素材だと思われます。実際、蚕というのは、繭の中で非常に快適に過ごしているわけです。紫外線、あるいは、保温、雨、露、そういう天候、それに対して、非常に繭の中は快適な状態になっています。それと同じようなあれ(快適な状態)を人間の衣服で実現する必要があるのではないかと思われます。後は方法としては、織物では、絹の紡績糸とか、混紡糸、これは主にくず繭というか、くず絹ですか、それを、原料として、非常に短い糸、これを、紡績糸として、他の綿とかウールとか、そういうものと混紡して、両方の性質の良さを出すような方法というのもあるのではないかと。
それから、複合化というのが、現在、だいぶ脚光を浴びてきているのですが、これは、ハイブリッドシルクというので、やはり、複合糸・生糸です。これは、ナイロンとか、ポリエステルとか、キュプラもそうですが、そういうものを中へ、糸の段階で入れております。それから、不織布という形は、これは、繭の毛羽の部分です。それらを、有効利用すると、不織、あるいは紙、あるいは布地でも、例えば、刺繍技術などとタイアップすると、意外と従来の織物に対抗できるような、それで、高生産性の布地というのも可能ではないかなと考えております。
あと、今、脚光を浴びておりますのが、パウダーシルク、シルクパウダー。
これは、化粧品とか、食品とかに使われておりまして、更に、くず糸そのものを薬品とかに溶かして、糸とかフィルムに再生する、再生絹糸、こういう方向も考えられると思います。最後に、世の中には、10万種以上、蛾がいるわけですが、蚕業に利用されているのは、ほんの一握りだけで、未知の繭、これには様々な機能が秘められているということが期待されています。これらの10万種、全部を調べられるかどうかわかりませんが、そういう方向で、可能性としては、非常に広く広がっていると考えられます。以上です。
北村: どうもありがとうございました。続きまして、横浜のシルク博物館の部長をしておられます、小泉さんの方から4分ほどで、申し訳ございませんが……。
小泉:それでは、シルク博物館の小泉でございますが、今日は話題提供ということで、大変、大きなテーマをいただきましたが、私ども、横浜の大桟橋の側に、シルク博物館がありまして、そこの取り組みをお話して、今日の責任を果たさせていただければと、このように思っております。
そもそも私どもの博物館というのは、この桐生の地から比べると、あるいは、皆さんのそれぞれの地域から比べますと、歴史的には大変浅いところではございます。幕末の鎖国が解かれて、横浜港が開港されたというときに、横浜が初めて脚光を浴びて、シルクの街としてスタートするわけですが、そういうことに肖って、今のシルク博物館があります。過去のことはともあれ、これから、我々がどういう取り組みをし、また、博物館としてどういうことを成すべきかということで、私ども、大変、苦慮しているわけなのです。
そういうことをお話して、皆さんに、ご意見をいただき、また、こうあるべきだということも、ご示唆いただければ、大変ありがたいと思っております。
私ども、平成11年度に、シルク博物館を改装しました。それで、そのときに、やはり、先ほど、田島先生のお話もそうですし、岡先生のお話もそうですが、21世紀という話が出ましたが、私どもも博物館として21世紀に誇れる博物館を作ろうと。その中には、博物館の展示も然りですが、いかに、21世紀に向かって、博物館として、どういう行動を取って、何を成していくべきかという大きな命題を抱えながらスタートしております。では、そういうあれ(大きな命題を抱えている)なら、どういう取り組みをしているのかということになるのですが、まず、私ども、シルク博物館のある横浜は、開港されたときに、明治の始めに、スカーフの産地としてスタートしますが、最初はスカーフであったわけではありません。これは、ハンカチ、当時は鼻拭きといって、新聞にも載っておりますが、そういうものが輸出されたのですが、今は、大きなスカーフの産地として、多いときには世界の6割近いものを生産し、国内の90%を占めるというような産業でもあったわけですが、現状は大変厳しい状況でして、横浜のベスト5に数えられているような大きな会社が今年は2社、倒産をするというような状況にもなっております。そういう中でありますので、私ども博物館としても、ただ、博物館だけがやっていれば良いという問題ではないものですから、改装したときに、まず、シルク博物館に、ミュージアムの中にショップを設けようということです。これは、日本のシルクも紹介すると同時に、横浜のシルクを紹介しようではないかということで取り組みをしました。これも、実は、博物館を改装するときに、業界と話をして、また、私ども内部としましても、この博物館がショップを運営するのか、それとも、第3者に任せてやるのかという議論をさんざんし、結論は、第3者に任せようと。その第3者に任せるときに、では、誰に任せるのだ、誰がやってくれるかと、こういうことで、大変、外部との攻防もあったのですが、結局、横浜市に大きな繊維振興会という会がございまして、約200社から成っている皆さんの会なのです。そこが責任を負いましょうということに、最終的にはなりました。それがまた赤字になったら大変だなと思いまして、私、頭の毛が無いところが、ますます無くなっていくという状況にもなったのですが、結論的には、今、大変順調にいっておりまして、なんとか、これは1つ軌道に乗ったと。
それでは、もう1つ、博物館が外部に向かって何ができるのだということで、今、お手元のところに、皆さん、あるいは、お持ちになってきているかどうか知りませんが、「シルク博物館」という入り口にあったパンフレット、お持ちの方もあるかどうかわかりませんが……。実はこのパンフレット、一見、博物館と書いてあって博物館の紹介のようなのですが、開いてしまうとシルクマップなのです。横浜のシルクをいかに皆さんに知っていただいて、買ってもらうかということで、ただ、こういう宣伝のものを作ると、どこでもなかなかパンフレットを置いてくれるところがないわけです。ところが、シルク博物館という看板があるために、ホテル、観光案内所等々、色々な個所、横浜全部置いてもらっております。これも、なかなか、一朝一夕に、ホテルも30数ヶ所全部、歩いて、交渉して、お願いする。それから、旅行案内書もそうです。皆そうやって、博物館の職員が昼間はとにかく、8時半から5時までは館の仕事をしていますから、アフターファイブでそれからが遊びの時間ではなくて、それからが業界と結びついた、横浜のシルクを再興しようと、日本のシルクをなんとかしようというような心意気で、自分よがりなところもあるのですが、そういうことで、取り組みを始めたということをしております。
まだ、お話したいこともあるのですが、時間になってしまうと思いますが……。私ども、この前のサミットのときもお話したのですが、小学校、あるいは、中学に向けては、博物館の利用手引きというのを作って、この前岡谷でお話しました。これも大変学校の反響を呼びまして、そういうことで、あの、手引きそのものを先生は利用するわけではないのですが、あれを配ったことによって、博物館を知って、かなり足を運んでくるということで、今、取り組みをしております。もう、来年は、いよいよ、総合的な学習がはじまるということで、更に手引き等も直して、新たな取り組みをしようと考えております。また、小学校もかなり、私どものところに相談に来たり、いろいろ取り組みを始めております。
それと、もう1つお話しておきたいのは、やはり、高齢者が大変多い時代になりまして、私もそうですが、そういう中で生涯学習というものが、今大変、各市、町の中に、そういうサークルができております。そういうところとも手を結んでやっていこうということで、時には、講演会を設けるとか話し合いを持つとかというようなこともして、シルクを知ってもらう。また、私ども、横浜にあるシルクの文化を知っていただくというようなことで、今、取り組みをしております。もう少しお話したいのですが、時間でございますので、私のスピーチは終わらさせていただきます。
北村: 今、シルクの文化と技術の伝達という面からお話いただきました。続きまして、京都は丹後の網野町からお越しいただいておりますが、ちりめん織りと染めの工場を経営しながら、染・織工房も運営しておられるという、織元田勇の田茂井さんをご紹介したいと思います。
田茂井:ご紹介預かりました。田茂井でございます。丹後ちりめんの機屋でございます。私はずっと、一度は、この桐生に是非ともお邪魔したいなと、非常にここの町は、以前から、魅力のある町だということをお聞きしておりましたので、やって参りました。
昨日は、朝9時半に出まして、着いたのが18時前でございました。そのように、丹後は遠ございます。東京から6時間、7時間かかるという所でございますから、陸の孤島と言われているような丹後でございます。その中に丹後ちりめんは根付いております。48年には993万反というたくさんのちりめんを織っておりましたが、それからどんどんと、グローバル化になり、輸入が始まりましてから、生糸はどんどん高くなるが、織物はどんどん安くなるという、糸高製品安という状況が続きましたが、最近はその当時はやはり、国際市価だったら丹後は絶対勝てると若い人たちは大いに言っていました。ところが、私はそうではない。やはり、地域の、日本の糸を使って何ができるかなのだ。そのときにできた物が、生活者にどう受け入れられるものが作れるかというのが、私の理念でございまして、丹後ちりめんは製品であって、商品ではございません。そこに初めて、染めなり、友禅をかけて、商品になるわけでございます。ところが、日本の女性の方々は、世界にない友禅という美術品を身につけておられます。そういうことを、日本の女性の方々は本当にそういう世界を歩いて見て、感じられるかどうか、その辺のことが気になることでございます。
4分という時間でございますので、私は「あけぼの」とその糸の開発からずっと携わって参りました。それから、また、ここへ来ておりますのが、あけぼののちりめんでございます。というのも、私は、山田五十鈴さんの「蜂の巣城」という映画が随分、大昔の、若い青年時代だったのですが、暗い廊下を歩くのにシュッ、シュッという絹鳴の音がした、その絹鳴の音の出る織物をどうしたらということですが、やはり、それは、生絹を身につければ当然起きるわけですが、しかし、今のあけぼのの糸はほんとうに繭も小さいですし、最初のうちは、節だらけで、どうとも、もう、商品になりませんでした。それを、どんどんと改良されて、やっと、できたなと思った時分に、今の現状でございます。特に、長野県では、JAが合体したときに、そのような赤字を引きずって来るような農協は仲間に入れてやらないというようなことから、その繭は全部群馬県の碓氷製糸に行っております。たまたま、私も、群馬の碓氷製糸にお邪魔したときに、倉庫の中へあけぼのの長野県の繭が全部ありました。それが、農水省のやっていることと現実の問題とのかけ離れた関係でございますし、それから、また、私らは今の産業省でございますが、通産省と農林省との、こういう両省にまたがった中でのシルク産業、絹の文化をどう残すかということに、いつも頭を悩ましております。今現在は、国際市価になってしまい、それから、また、繭の値段が500円とか、600円、このようなことで養蚕農家が生ける道理がございません。そのようなことを踏まえましても、本当にこれで日本のシルク文化が残るだろうかと。一番、そのことを私たちは……。
いい生糸でないと、いい商品はできないということが大前提でございます。うちの工場を見ていただきましたら、わかりますが、縦糸がだいたい、倉庫に入るのが、4本が、それを1本といいます。4倍ですから、だいたい、27蛾でも、9000本の糸が、縦糸として、張られているわけでございます。その中に、1個の節もないというような、糸をどこにあるだろうということで、18年ほど前から、世界中を歩きました。中国は行って参りましたが、四川省の奥まで、ずっと、歩きましたが、その当時は全然話にならないという状況でした。それで、タイも行きましたし、最終、ブラジルも行って、12時間ほど、ブラジルの各製糸工場を皆見せていただきました。ブラタクという会社があって、これは、日本の移民団の方が養蚕から製糸から全部やっています。そして、その技術を、特に信州大学の優秀な方々が、向こうへ行って、自動繰糸機を初めて向こうで完成させて、動かしたという会社でございますが、そこの状況を見ておりまして、あ、ここに私らが求める糸があったなと。これは、丹後の機屋6人ほどと行って、色々とつぶさに研究所から全部見せていただきまして、でも、養蚕農家の方々は大変ご苦労しておられます。それほど裕福な生活はしておりません。非常に貧しい生活をしながら頑張っておられまして、そういう姿を見ておりますと、涙が出たというのが、日本人として感じた実感でございます。そういうものを今現在は使っております。
ですから、最近は、特に中国の浙江省の糸は素晴らしい糸でございまして、特に、ブラタク以上に節は本当にございません。そういう物を使いませんと、結びが1つあり、節が1つあると、全部流通段階では、それが、AB反になってしまって、まともな値段に通らないというような、厳しい品質検査をさせて初めて、業界が受け入れるということでございます。動物から作る繊維でそのような無茶なことは、私らからいいますと、これだけご苦労されている養蚕農家の本当に姿を見、それから製糸の方々を見ておりますと、どんどんと、現状は日本から製糸はなくなっていくという現状でございます。それを、このような形で、「地域に息づくシルクの文化と技術」ということでございますが、日本に繭もなく、製糸もなく、生糸がなくなったときにどうするのだろうなと、こういうことで、今のシルクミュージアムサミット、ミュージアムとか博物館とか、ギャラリーとか、そのような形でしか残れないのでしょうかと、今年の3月ありましたときにも、お話をしていたような状況でございます。そこの中で本当に地域に息づく文化というのは、どういうことであろうかと、私は絶えずこれは自問自答しております。
網野町は絹のふるさと、丹後ちりめんの里ということで、町長をはじめ、全員が頑張っております。京都府も、織物指導所というのも無くなりまして、先ほどの先生のお話ではないですが、やはり、工業高校の紡織科、そのものが全部無くなりました。かろうじて、残っているのが、舞鶴にある職訓短大(京都職業能力開発短期大学校)のところにデザイン科がある程度の状況で、組織とか、織機の使い方とか、基本的な技術的なものを伝承する学校は一校もなくなったというのが、現状でございます。聞くところによりますと、京都の工業繊維大学も縮小するようなこともお聞きしております。そういう中での、地域・文化ということでございますが、そういうことで、特に、生活者の着物離れ、それからまた、価格の急激なダウン、ユニクロとかスーパーのような形で、大量的に仕入れて、大量に物を安くするというのは、価格とそれから、また、それに応じて、品質がものすごく厳しいです。到底、今私たちがやっています、生糸を買って、糸くりをして、撚糸をして、織物にするというような、人件費は、中国の20倍になっていますから、非常に困難ですが、要はこういう量が減ってきた中には、着物の好きな人はまだ、たくさんいます。昨日も、来るときに、両毛線に乗りますと、大変大勢の高等学校の生徒が、列車に満員でございました。そして、その前に、男性の方がおられて、そういうちりめんのことをお話しましたら、「田茂井さん、まだ、これだけの大勢の人が成人式には全部着物を女性の方は着られますよ。だから、まだ、頑張ってください。」という、励ましの言葉を桐生に来て初めてお聞きした現状です。
そのようなことで、小学校との関わり合いというものも、絶えず、卒業生から、近在の網野町だけではなく、他町の方からも学校の生徒が勉強に来ます。そして、特にうちの近所の小学校なのですが、子どもの5年生の子たちが、インターネットを今、学校の中に20台はコンピューターが入っています。全部、それは、LANで組まれておりまして、そして、そこで、既に、インターネットも立ち上げておあります。このようなことで、丹後ちりめんをインターネットに載せてくれて、学習したものを発表しています。この中にも、3000個の繭で1反の着物ができます。これ、1個のまゆから、約1キロメートルの糸が取れる……、このようなことまで、勉強してくれておりまして、なんとか、丹後ちりめんを残そうというようなことも起きております。昨年の生産量が、127万4000反、今年も、120万3000反には達成するだろうと、このような数字を見ていますと、やはり、産地の中では、大変、色々なことを頑張っています。家の中でも、やはり、シルクというものは、人の肌に優しい、最高の繊維であり、これ以外にはないというように、私はシルクというものをいろいろと勉強していますと、そういうことが、だんだんと本当にこのことを生活者の皆様に、観光バスで来た方々に、知らせたいと思って、必ず、うちの工場に来ましたら、縦糸を触っていただきます。あの、すべすべした、素晴らしい糸、この中に、こういうことで、動物がつくった糸がこんなに素晴らしい糸を作るのですよという説明をしましたら、本当にびっくりしておられます。それだけ生活者がシルクをいうものを知らなすぎるということがあります。ですから、こういうサミットをはじめ、ミュージアム、この場所で、シルクをもっと、もっと、宣伝していただきたいと思います。
私は、あくまでも、シルクに全力を尽くして一生涯を済ませたいと思っています。本当に今やっていますのは、男子用のスーツだとか、ブレザー、それから、婦人物の、洋服関係も小幅でやっています。しかし、小幅でないと、広幅で織れないものがたくさんあります。そこに、また、友禅ということをできるのも、小幅であり、尺取織機?で織らないと、この友禅はできません。というのは、真しかけてはらなければならない、ということで、耳も全部とんでしまいます。ですから、そういう夢のある織物でないと、織れませんし,丹後の織物は、京撚糸で、糸が固とうございます。ですから、レピア、とかウールデッド、こういうものには、全然、不向きでございます。ネクタイなどは、先染織物ですから、織れるということでございますが、これだと、中国にさんざんやられています。このような現状を踏まえて、本当に日本のシルク文化をどう残すかということが、私は皆さんと一緒に考えていただきながら、教えていただきたいと思っておりますので、どうか、よろしくお願いいたします。
北村:それでは、最後になりましたが、地元桐生で明日も見学させていただきますが、織物参考館“紫”を運営しておられる、森島さん、簡単にお願いします。
森島: 織物参考館の森島でございます。私も、主催者側の一員でございまして、タイムキーパーの役目もございます。時間が大変押しておりますので、また、私どもの方の見学会もありますので、そのときに、大方のことを説明させていただきたいと思っております。まず、本当に多くの方に我が桐生市に来ていただきまして、大変ありがとうございました。たくさんの方々に来ていただいたおかげの中には群馬県、桐生市の方々が大変努力をしていただいたことに感謝をしたいと思っております。そして、桐生の大先輩方がたくさんいる中で、私がここに上がらせていただくのも、3月の「シルク・ミュージアムサミット in 岡谷」に参加させていただきまして、そのときに、発言をしたのがきっかけで今日の日を迎えているということでございますので、あらためてご了承していただきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
北村: これで一応、パネラーの方のそれぞれのお立場、背景というものが、若干、分かっていただけたと思いますので、今から、フリートーキングといいますか、パネルディスカッションに入りたいと思います。先ほども少しお話しましたように、今日の話の全体の流れが、これまでの大量生産、大量消費というような流れから、ちょっと、立ち止まって考えてみよう、ちょっと待てよと、もっと、潤いとか、ゆとりのようなものがあってもいいのではないかなと。特に生活に一番大事な衣食住の中の以外と忘れられているのは“衣”ではないかと。その部分がなぜかといったら、先ほど、岡さんの話にありましたが、生活者と“衣”を構成している養蚕から始まって、製糸、染織、服飾という工程ごとに分断されてみて、なかなか、全体として、1つの大きなプロジェクトになっていないと……。プロジェクトということになると、やはり、それを支える、技術なり、文化というものがしっかり残っていないと、プロジェクトが成功しないという観点から、この会を持たせてもらっていますので。会場にもそういう観点で、例えば多摩シルクですとか、あちらこちらで色々、ご活躍の方もおられると思いますので、会場からも是非、積極的なご意見をいただきたいと思います。 岡さん、何か言い残していることが、たくさん、ありそうなので、まず、岡さんから……。
岡: たくさんということですが、そういう顔をしていたのかなというように、ちょっと、気になりましたが……。私が住んでいる長野というところは、よく、養蚕県といわれていた県なのですが、私がこの仕事を始めようと思った、先ほどの3年くらい前ですか、長野県下、色々と歩きましたし、高林先生に色々ご相談したり、県の試験場とか、いろいろ、訪ねました。ところが、実際に残っていた機屋さんというのは、着物の機屋さんで、私が知っている限りでは数件という形になっていました。もちろん、シナノケンジや、片倉さんとか、かつて有名、もちろん今も有名ですが、そういったところも、後々お訪ねすることになっていくわけですが、実際に直接関わった機屋さんというのは、本当に数軒ということになっていました。
年齢的に私くらいではないでしょうか。小さい頃に桑畑があり、側に蚕を飼っているようなところも現実にあり、私自身も小さい頃、蚕を飼っていたという、そういう生活でした。でも、この下くらいから、そのような感覚ではないような気がいたします。この長野県というところにおいても。現実に、須坂や岡谷に行きまして、博物館というか、かつての歴史を残しているところを見させていただいたときに、やはり、ふと、考えてしまいました。かつての物が、展示されているという。昔なのです。昔というものなのです。現実に長野県というところを歩いてみて感じた部分は、一点はそれでした。
例えば、実際、体験学習ということで、手織りの機が置いてあったりとか、染織とかそうこともあります。ですが、かつての物を展示しながら、いかに、今というものを感じてもらうか、と同時に私は、未来を感じてもらうかという部分が、この絹という分野に関して言えば、未来というものを感じる展示の仕方や、表現の仕方が、非常に足りないところだというように痛感しました。ですから、素敵ですねとか、かつては本当にこんな技術をやってきたのですねとか、手が込んでいますねとか、そういう言葉は言えたとしても、やはり、日本のエスニックという着物の世界といいますか、そういう感覚のものとしか感じなかったのです。
正直申し上げます。学生たちを、例えば、授業として、見なさいということで仮に連れて行ったりとか、そういうことをしたとしても、それは、今の私たちとは違う歴史という、やはり、かつてという言葉になってしまう。そこには、一旦、区切れてしまったようなものがあるわけです。私は先ほど申し上げたように、絹という世界が未来というものを感じるやり方はもっと必要なことだと思っています。現実にやりたかった展示なのですが、審査でパスできなかった一例を挙げさせていただくと、タイトルが、「コクーンのサイエンス」という、「コクーン=繭」です。先ほど、何人かの方々が、「コクーン=繭」は、本当に、自分が吐き出していって、自分の身を守っていきながら、紫外線カットも抗菌も、いろんなものを排出していく力も、皆兼ね備えた天然の、これこそ衣服と例えられていいのではないかというようなお話が出てきました。これは、まさに、サイエンスという世界といっていいと思うのです。ですが、絹という言葉とサイエンスという言葉が、結びつかない。それは、展示方法を見ても、どうしても、古というような状況になりかねないという部分。これは、どうやってイメージを変えながら、未来というものを感じてもらうかというところに、一部は、大きく関わるのではないかというように、私は思ってきました。
先ほど、フィルムで、一部、見ていただいたものが、ほんの一部しか表せてないことは、私はまだ、未熟さが語るものだというように思います。ただ、あのときに、農業大学の長島先生という方と一緒に組ませていただきまして、現実に残布を溶かしていただくというようなことも体験させていただきました。そのときに感じていったことです。非常に未来的な部分を持っているのだ。
もう一方では、ファッションという世界、未来、未来、未来といいますか、見たことないもの、見たことないもの、見たことないものといくものですから、歴史というものが、それほど深く必要ではないということもないわけではないような気がします。これが、やはり、結びつくこと、かつてからの長い歴史と研究と、そういったものが、かつてというイメージではなくて、あるいは、昔というイメージではなくて、あるいは、着物というイメージではなくて、非常に時代が求める未来的なものなのだということを、イメージづくりしていくことが、消費者にとって、私は悪いことではないといいますか、必要なことだと思っています。ですから、時々、たとえば、絹といえば草木ですねとか、一つ一つの一点物ですねとか、そういうイメージもあります。私はそれの分野だと、当然思っています。ですが、もっと多くの方々に、その時代が求める物こそやはり最先端の物なのだ、イコールそれがその時代の生んだ技術なのだということを知ってもらうために、絹というものは、あらためて、最先端のものだということを、知ってもらう展示方法や表現の仕方が一部足りないのではないのかなというように思ってきました。
今日、博物館の方々が多いというようにお聞きしておりますので、もしかしたら、非常に失礼な部分を踏まえて、私も、何軒も見ているわけではないので、既に、やっていらっしゃるところがたくさんおありかもしれません。ですが、私が地元で、長野というところに住んで来て、素直に足りないなと思ったのはそこの部分でした。
北村 : シルクの関係は、だいたい、今言われたように、博物館、資料館と名前をつけているところで、大体全国で24くらい。それから、展示の一部にシルクのコーナーがあるようなところが、大体10幾つですか。それから、森島さんのところとか、田茂井さんのところのように、織りの工程を見せながらやっているのが、17くらいあって、全部で大体50くらいあるのです。確かに、昔を展示するというのが、結構多いのですが、その中で、やはり、横浜のシルク博物館は、シルクの科学を見せるところがありますし、田島先生のところの日本絹の里もそういう傾向が強いのではないでしょうか。その辺のところを、お話を少し(お願いします)。
田島:……文化、技術の伝承ではないか。たくさんの人々が絹に興味を持ち、関心を持つ。そして、それが、生産者に結びついていかないといけない。群馬の歴史、文化の遺産を考えると、非常にごもっともな発想だと思うのですが、一番、苦しんでいるのが、どうして、生産に結びつけるかということなのです。生産にどうも、結びついていかない。そこに、どうやって一歩踏み出すかということが、私の最大の悩みです。正直に申し上げてそういうことです。 例えば、絶えず努力して、陳列を変えるとか、新しいテーマで問題を考えるとか、そういうことをやっていれば、たくさんの人の興味を引くことはできる。しかし、本当には、なかなか農家の方々の増産には結びつかない。その辺が、非常に難しいところだなという気がします。
北村: 今もお話がございましたが、先ほど、岡さんの話の中にも、色々な業種の人が通訳を媒介するのではなくて、ダイレクトに情報交換しあったり、同じ思いで、同じ方向を向くというのが非常に大事だと言われていました。確かにそれは、その方向が1つ試行してみる非常に大きな方法かなと思うのですが、その辺で、田茂井さん、森島さん、何かあるのではないですか。
森島: 今、岡さんの方から、話があったのですが、実は私どもも、そういうことがあるのではないかということで、資料館を始めて20年が経ちました。私どもはよその資料館と違って、全部、動かせます。そして、動かしてみて下さいという志向でやっているのです。そして、現実には、未来につながらないということがあると思いますので、革新織機も入れて公開をしております。ですから、古いいざりや地機や高機から、そらひき、そして、バッタン式を含めて、手織りの技術から足踏みに至り、そして、現在の力織機までの、工程を全部動かして見ていただいています。
それから、もう1つは、歴史があるからいけないのではないかというようなお話でしたが、実は、私ども、この20年を機に、今年度、先ほど出ましたが、碓氷製糸さんにお願いいたしまして、碓氷製糸さんも50年ぶりくらいに織ったといわれていましたが、14中の糸をひいていただきまして、先ほど三友先生の表にありましたが、戦前の非常にいい時代に作っていたお召しを、復元いたしました。やはり、今、28中の主流の中で,戦前は14中という、非常に細い糸を使って、お召しを作っていたということで、それをぜひともやってみたい。それには、八丁撚糸機も動かさなければならない。当然、私どもで、資料館では公開しておりますが、八丁撚糸で、糸を縒って、そして、それを、その糸で機織をしてみたということで、できたものは、デニールの結果は同じなのですが、空気が品物の中にたくさん入ると見えて、非常に暖かそうに見える織物ができました。そういうことからして、決して昔の物が悪いのではなくて、かえって、新しい技術や革新技術によって、古いものを壊してしまっているのではないかという危惧さえ感じられます。ですから、本来は、昔の手で作っていた一番良いものが、良い物で、その後は、全て、我々、織物や染色の業者が壊してきたといっても過言ではないのかなと思えることさえあります。しかし、全体の考え方としては、そのような考え方ではなくて、やはり、過去があり、そして現在、そして未来につながっていくということにならなければいけないわけですから、私どもとしては、その辺のところを、非常に悩んでおります。
北村: 先ほどの、岡さんの話の中で、桐生に来られたときの話だったと思いますが、機屋さんが自分たちの作ったものがどこで使われているのかよく知らないという話をされたと思います。ある意味では、工程ごとに分断されていて、生活者からのフィードバックがかからないというお話だと思うのですが、その辺で、どうですか。地域の中で、活動されている多摩シルクの方、来ておられますか。 もし、よろしければ、少しその辺の体験のようなものだけでも、お話いただければ。
小此木:
「多摩シルクライフ21研究会」の小此木でございます。諸先生のお話、大変、参考になりまして、私も良い勉強をさせていただきました。やはり、ここへ来ますと、絹ということを考えた場合、日本は、確か4番目の絹消費国になっておりますが、消費するという面では、日本は多様性から言っても、文化の面から言っても、世界最高ではないかなというように考えております。しかし、それが先ほどの田島先生のお話にありましたように、では生産ということにどう結びつくかということを考えた場合に、非常にお粗末で本当に日本の文化の空洞化というのが、ここまでくると、一体日本はどこの植民地?ということになりかねないと思うのです。そういう意味で、私は、特に、蚕糸科学技術というのは、世界でも最高だったわけですし、蚕品種の改良から、生産にかけての、この100年間の技術の進歩というものは、素晴らしいものであったし、世界でも最高のものだったと思うのです。それが、例え、方向が変わったとしても、ここで、くしゃんと、果たしてもうだめになって、果たして、日本は蚕糸も、蚕も飼いません、糸もひきませんよということを言っていられるだろうかということを考えた場合に、私は、蚕糸科学技術、蚕糸の生産技術、そういうものをもう一度、ここで興さなければ、世界のためにも良くないと思うわけです。
そういう意味で、確かに、岡先生のお話は私どもにとっても、非常に新鮮で素晴らしいお話がたくさんあったのですが、地域ということもアジアに限っていいのですというお話は、利便性とか合理性とか快適性というものを考えれば、もう、国境はないと思って良いわけです。国境など、快適性ということを考えると、世界共通の認識ですから。快適性といえば、欧州でもアメリカでも日本でも同じであって、それは、もう、国境がなくても良いわけです。日本に限って、蚕糸、絹の文化をどう残すかということになると、やはり、限られますが、和の文化というものを抜かしては、私は考えられないと思うわけです。もちろん、洋服生地は、今も日本はファッションでは、もう、どこの国にも負けないくらいのシルクのファッションが世界のひのき舞台に立つような時代になりましたが、日本の国で、日本の文化でということになると、やはり、和の文化抜きにして考えられないと思うのです。私どもは色々やって、洋装もやっているのですが、特に、日本の和の文化というものを主眼に置いて色々、研究しています。私は色々な西陣の方にも関わってきましたし、八王子の近辺にも大いに関わってきました。本当に日本の和の着物の生地ということになると、当然、そこに新しい時代へ向けての蚕品種の改良というのが、どうしても関わってくるのです。
具体的にいいますと、今、私どもの会員でやっているのが、平安時代の生絹(すずし)という着物で、精練しない着物なのですが、これは、何も平安時代、そっくりそのまま残そうというのではなくて、平成の生絹ということをめざしてやっているのですが、そこには、現行品種ではどうしても表現できない物があるわけです。それで、今現在、小石丸とか、青熟改良種などを使いまして、あるいは、四川三眠改良種などを使いまして、生絹の再現をやって、かなり良い線まで来ているわけです。では、生絹は具体的にどう作るかというと、やはり、蚕品種の改良が前面にあって、なぜ蚕品種の改良が必要かというと、現行品種ではしゃきっとしたしゃり感と、溶けやすい第一セリシンが、ぼてぼて、たくさんあって、精練しなければ,非常に固い布になってしまうのです。当然、蚕品種の改良があって、糸の太さも細い物が良いわけですし、そして、今度は糸の取り方としては、どうしても細い扁平糸を、横に入れないと、生絹を表現できない。そういうような意味で、唐錦とか能装束とか、それから、手織りのつづれとか、西陣などにも関わってきまして、新たに、日本の文化として恥じないものを作るためには、やはり、蚕品種の改良から始まって、糸の取り方、より方、練り方、織り方全てを含めて、そして最後に、能には能の、踊りには踊りの、お茶にはお茶の、それから、香道には香道の、そういう日本の着物を着たときの行動美学、行動科学と結びつかなければ、最終的には、もう、世界に追い越す日本の文化を、シルクの文化を組み立てることはできないという、そういう考え方に落ち着いているわけです。
この間は、ファッションショーをやりました。今、私どもがやっている武蔵村山大島というのがあります。それは、先染めなのですが、それを、武蔵村山白紬で,織りまして、それを、染めていただいて、ファッションショーで、踊りの先生に着ていただいたのです。それで、生地・素材の持つ素晴らしさが、如実にそこに出たのです。踊っている方なのですが、立って、止まって、すっと構えているだけで、生地に動きがあるのです。従来の生地とは違うのです。そこに、新しさがあるというので、その先生が、とてもお気に召して、その着物をとうとうお求めになりました。そのように私どもは、やはり、これからは、衣こうにかけて変わって見せるのではなくて、やはり、岡先生もおっしゃってらっしゃいましたが、行動科学とか行動美術と結びつけた美しさというものを、やっていけば、歴史はそこに留まっているのではなくて、更に平成から、100年後、200年後に向かっての、文化というものも、決して、無くならないし、益々、盛んになっていくだろうということを考えています。
それで、田茂井さんのあけぼのなのですが、あけぼのは千回以上、よりをかけると、非常に空気が入らなくなるという一つの結果が前に私がやったときに出ました。あけぼのは確かに枝条が長くて、繊度が細くて良いのですが、そういう、より、強撚をかけることによって、空気を非常に含まなくなるような特徴があるということを、西陣の方たちに言ったことがあります。ちりめんもとことん、素材を追求すれば、もっともっと、もっと、ブラジルや中国糸には負けないような、素晴らしいちりめんができると考えています。やはり、素材というものはこれからの大きなテーマであって、素材と最後の行動美学とか行動美術とか、行動科学とか、そういうことを結びつけて、動かなくても、立っているだけで動きがあるというような、私は表現をしました。実際にファッションショーをやってみて、それを痛切に感じたものですから、ここで、お披露目させていただいたのですが、紬なども、全てそうです。今回の私どもがやりましたファッションショーは、そういう意味で、動いて、着てみて、動いて、感じてみて、やはり、素晴らしい物は素晴らしい物だということを、痛切に感じました。以上でございます。
北村: 全体のトーンとしては、大体、同じ方向を向いているのかなという気はしているのですが、要するに、物を売るために活動するのではなくて、やはり、まず、これまでの、大量生産、大量消費から反省して、ちょっと、立ち止まって、ゆとりのあるものを作ってみよう、着てみようという……。先ほどの言葉の中では、心の快適さというお話がありましたが、そういうやはり、ちょっと、立ち止まってやってみる。しかし、田島先生が言われたように、それが、農家の生産意欲に結びつくところまで、きちんとフィードバックできるかどうかという問題が、かなり難しいかなと。ですから、これは、壮絶なプロジェクトでもし、うまくいって、このままずるずるっと右下がり傾向が、止まるということが起これば、きっと、NHKのプロジェクトXで紹介されて、そのとき男たちは立ち上がったというような感じで……。そのためには、生活者も入れた輪がきちんとできて、お互いが言いたいことを言い合って、先ほどの話では、立場で話をするのではなくて、同じ方向を向く意欲で話し合える、そういう会を作っていくことが大事だということになると思うのです。その辺、大学の観点から見て、三友先生、どうですか。学生をこれから、指導していかれるということを含めて。
三友:
ご指名なのですが……。そうですね。先ほども一応、繊維関係の学科が、無くなったという話はお伝えしたのですが、実際は、大学の企業との結びつきがかなり今、??になっているのですが、学生の就職なども、非常に繊維関係の方にもいっております。ですから、そういう面で、後は、学生に繊維関係の授業というのも、若干残してやっておりますし、できるだけ、そういう技術の伝承、継承、それは、なんとか続けていきたいというようには考えております。
それから、後は、取り組み方が違うのですが、本当に生物的な観点からシルクを見るという方法も1つ、学生に課題を課しています。私のところでは、例えば、シルクとウールの蛋白質の解析をやって、そうすると、結局、遺伝子の設計ができるわけです。それを、大腸菌などに入れて、大腸菌を培養すると、菌の中に、シルク、あるいは、ウールとシルクのあいのこのような素材が、大量にできるわけです。これは、実際は、農業ではなくて、実用化するとあれば、工業で、大きなタンク培養です。そういうあれ(方法)で、素材を取って、更にそれを、糸にしたり、フィルムにしたりということも可能ではないかなと。そうすると、そういう話をしたり、実験をやらせていますと、学生も、やはり、非常に興味をもって聞いてやってくれます。確かに、蚕を扱って品種改良をやったり、飼育してみなさいという方向も1つあるのですが、そして、それは非常に大事だと思うのですが、もう1つ、変わった方向からのアプローチもあるのかなというように私は思っておりまして、教育に生かしております。
北村: おそらく、今のは、衣食住の中の衣という観点を大事にして、着るということから、いろいろと考えてみようということだと思うのですが……。岡さん、先ほど言われた大きなプロジェクトの中で、もう1つ、比較的悩みごとなのは、先ほどの、品種を残していこうと思えば、日本の中に難しい品種でも飼えるような養蚕の技術というものがどこかで息づいていないと、はっと気が付いたときには、日本の固有の品種がなくなってしまったり、誰もが飼えなくなってしまったりする状況が出てきたりもするのではないかという気もするのです。それで、岡さんの描いておられる、大きなプロジェクトの中に、そのような養蚕農家、養蚕技術というのが、どの程度これから先、入ってくるのか、あるいは、どうしたら入っていけるのかという、いいアイデアがありますか。
岡:
大きなプロジェクトじゃないものですから。本当にまだまだ、スタッフも少ないですし、考えている夢は大きく、となるかもしれませんが……。今の質問と少し外れるかもしれませんが、まず、先ほどお話くださった話の中で、私はアジアの中の日本としてという言葉を使わせていただいたのは、日本人としての私自身は、自負心というか、プライドというのは、すごく持っている方だと思います。日本人として、やはり、絶やしたくないとか、日本人として、表現したいということは非常に強く持っている方の人間だと思います。色々な歴史を聞かせていただいたとき、それから、さっき、ずっとお話させていただいたような、育ち方をしてくる中で、私は、もう、ここで、シルクに徹するのだと思うまでには、やはり、日本人だからこそやはり感じたという部分が非常に強かったと思います。それは、着物文化の美しさや、庭のつくり方や禅の考え方や、そういうものを作りあげてきた日本人の美意識。それから、それを、ただ、飾るのではなくて、タペストリーとして飾るとか、そういう感覚ではなくて、やはり、使っていくという部分が、非常に重要な日本人の感覚だったというように思っています。まず、日本人として、非常にそのことを、意識してきたというのは一点、あると思います。
ただ先ほどのように、アジアの中の日本としてという言葉をあえて使ったのは、そういうプライドを非常に持っていながら、中国や、例えば、先ほどの韓国みたいなものを、今度は拒否するのか、それとも受け入れて一緒にある部分はやるのかという、その受け入れ体制を持つか持たないかの意味で、実際には、アジアの中の日本としてという言葉を言ったわけです。だから、私自身は、その糸を仕入れるのは、結果中国であっても、結果構わないというようにどこかで思うときがあるわけで、あるいは、今、現実にそうです。ただし、ここからは、私たちの技術で作りあげるのだというやり方をしているわけです。そうなってきたときに、今の、養蚕の関係ですが、私自身は、日本がそれを作れるものなら、絶やさず、一貫して通すということは重要なことだと思っていますから、糸は外にお任せではなくて、きちんと、やはり、そこのところ、ゼロから全部作れるという工程を、日本が持つことは重要だと思っています。量はともかくという形に、結果はなってしまうかもしれません。
例えば、もう1つは、うちの学生も、と先ほども言いましたが、今の日本人が、とも言っていいかと思うのですが、今、私たちが着ているものがどういうふうに作られてきたかということを、意識して着る人は、そういないと思います。現実には価格と色とデザインとどこのブランドかということを、デパートとかに行って、はい、好き、嫌いということで、ぱっと買って、ここ、品質見たら、ポリエステルだったと、最近は良くなったものだとか、そういう感覚で洋服を着ているといっても、これも過言ではないと思うのです。そうすると、それこそ、魚とかが、お刺身になってきたときに、刺身で泳いでいたのではないの?というふうな、大げさにいえば、そういう感覚と似ていて、実際はどうやって、これが生まれてきたのかということは、もう関係がない時代と言っていいと思います。そういう感覚だからこそ、洋服も使い捨てにするし、想いもないし、別に私はユニクロを悪いと思っていませんが、すぐユニクロは、という話になるわけです。どうしてそうなるのかというと、ゼロから作っている工程を知らないということも、確実にあると思っています。だから、ゼロから最終の物まで作れる技術が、研究が、残るということが、まず、重要なことだと思っています。ですから、どこかを全部渡してしまってということでは全くありません。ただし、量を作ろうと思ったときに、その部分のこの部分だけは、そちらの力を借りるということは、やっていっていいのではないかというように思っています。
会場の男性: 先生のお話にちょっと、関連しまして、私は1つ、疑問に思っている問題があるのです。それは、日本の生糸というのは、大体、アメリカ向けの女性のストッキング向きに作られている。そういう方向で、品種改良がずっと進められたわけです。すべて、糸の格付けというのは、靴下、ストッキングのあれが元だったのです。それは、日本の織物についても通じています。つまり、節がなくて、繊度がそろって、きれいに、繊度むらもでないと、そういう生糸がいいのだということで、ずっと、私どももそういう線で仕事をしてきたわけです。ところが、先生も、おっしゃったことがある。ファッションデザイナーの先生方は、どうも日本の糸は使いにくいと。今、それを考えてみますと、今まで、きれいな着物で繊維が揃っている。ところが、そういうことは関係なしに、別の性質で、例えば、洋装の、あるいは、編物にした場合の性状というものは、おそらく、その性状では満足できないのではないかと。どうして、デザイナーの先生ばっかりではないです。他の方も、日本の糸は使いにくいとおっしゃる。使う気にならないという先生もある。それは、なぜだろう。例えば、日本の生糸というのは、非常に良い気候で、そして、この気候条件にとって、非常に、最適なような改良がされてきているわけです。ところが、外国の糸の方が使い良いということです。それは、なぜだろう。どういう点なのか、先生、何かそこの辺を聞かせていただければ。
岡:
今のこれもお答えになっているかどうかわかりませんが、とにかく、きれいに、きれいに、生糸でフィラメントをとか、それは別に思っていません。実際に、私自身が、学生の卒業制作に使ったのは、正にそういう布でした。ところが、水じみがとかしわがとか、どうやったらいいのと、非常に気を使う状況でした。非常にきれいな繊維でしたから、というか、布でしたから、私は大事に扱いましたが、でも、シルクの中で何が好きときかれたら、その当時でも、私はシャンタンと答えていました。とても、人間らしいというか、そんなのはいてるのだからいいじゃないというか、それが、何というのですか、生物のそのものというか。ですから、私自身が今使っているものは、とにかく、きれいに、きれいに、傷が一点もなくというような、お着物の世界ではそういう部分があったのかもしれませんが、そういうものにとらわれるからこそ、逆に、大きなネックになった部分というのはあるのではないかと思っています。
逆に今私たちが作っている布というのは、それをまったく、わからないようにするといいますかイコールそれは消費者にとっても気軽に着れるという、カジュアルな方向に流れる要素を持っているというものに結びついた結果でした。ですから、他のデザイナーさんがどういう意味でおっしゃったのかわかりませんが、私は扱い難いと思ったことはありません。逆に言えば、そういう考え方に、絹はこうでなければならないということに縛られることの方が、やりづらいという部分があったかもしれません。
あと、もう1点、先ほどの、養蚕の件でお伝えして、足りなかった部分なのですが、願わくば、先ほど絶対ゼロから仕上げるところまで私は残したいと申し上げました。それは、小さな規模であっても、残したいというように私は申し上げましたが、もう1つ望みで言えば、それを広めたいとは、これを思っています。小さいころ、桑畑があって、緑があって、そういったところから、もちろん、蚕が育っていく中で、そういう風景が見られたわけです。だから、自然を増やしてくる中に、自分たちが着ているものを作り上げることができるという感覚がもう少し戻ってきて欲しいという意味で言えば、環境という言葉に合うかどうか、わかりませんが、少し、広まってくれたらという思いはあります。
北村: 先ほどの話ですけど、高橋治の「風の盆恋歌」ですか。この中でも、その、牛首紬の話が出てきて、その中に、「針金生糸という言葉ご存知」というのがあって、日本の生糸は蚕さんがゆっくり吐いた糸を、効率一辺倒で、ぱあっとひくので、固いと、中に空気が入ってない、あのようなものは使う気にはなれないと、森英恵も言ったとかいう。それに対して、今年の夏に、蚕糸・昆虫機能研究会というのをやりまして、そこで、千葉で工房をやっておられる方が来られて、日本の生糸はきれいすぎると。もっと、野生的な糸が欲しいとかです。思い切って、4000デニールの糸を自分たちでひいてみましたとか。そういうのがあって、結局、生活者のニーズというものを、もっとしっかり、くみ上げて、多様性を生かせるような産業というのが、きっと、いいのではないかなと思っています。あまり時間がないので……。もう越してしまったので。今日の話をずっと、聞いていますと、皆さん、思っておられること、かなり、共通的なので、これから先も、懐古主義的になんとか残したいとかそういう意味ではなくて、新しい試みで、着るということにチャレンジしていく。その中で養蚕農家から最後の生活者までつながっていくようなそういうビッグプロジェクトを、何年かかるかわからないが、日本のこの産業がつぶれない前に、体制ができれば良いなという思いを残して、一応、時間ですので、このパネルディスカッション、閉じたいと思いますが、宜しいでしょうか。どうも、今日はありがとうございました。
司会: ありがとうございました。それでは、以上を持ちまして、パネルディスカッションを、終了にしたいと思います。パネラーの皆様、本当にありがとうございました。 それではこれから、本日は大変多くの全国の皆様に、全国より、お集まりをいただきましたので、地元の団体の皆様のおはからいによりまして、桐生の八木節をここでご披露していただけるということでございます。これから、しばらくの間、この壇上の机等を整理いたしますので、その間、お待ちいただきまして、あと、1、2分後に八木節をご披露申し上げたいと思います。よろしくお願いいたします。
(八木節の演奏)
司会:
ほんとにありがとうございました。素晴らしい踊りとお囃子で、このシルクサミットに花を添えていただき熱く御礼申し上げます。
それではここで、ただ今演奏していただきました、お囃子の皆様をご紹介申し上げます。
桐生八木節連絡協議会選抜チームの皆様です。どうもありがとうございました。踊りの皆様ですが、桐生八木節キャンペーンスタッフの皆様でした。
本当に今日はお忙しいところありがとうございました。
それではここで皆様にご連絡を申し上げます。この後、引き続き、4階の第一会議研修室におきまして、シルクミュージアムミートを行います。これは、シルクに関する資料館、博物館の皆様の集まりでございますが、どなたでも結構でございますので、ぜひ、ご参加をしていただきたいと思います。その後、17時30分より、同じく4階のスカイホールBにおきまして、懇親会を予定しております。懇親会にご出席される方は、17時半ということでよろしくお願いいたします。それから、明日の見学会の件でありますが、現在のところ、40数名の申込をいただいております。後、若干の余裕がありますので、明日の朝9時に桐生駅の南口の方へご集合していただければと思います。マイクロバスでご案内をすることになっております。