(茨城県神栖町日川)

蚕霊神社

 千葉県小見川町から小見川大橋で利根川を渡り、息栖大橋で常陸利根川を渡って茨城県神栖町に入るとすぐに、県道260号線に向かって右折します。県道260号線をしばらく走り、バス停「萩原公民館」を過ぎると左手奥の方に、こんもりとした森がみえます。それが、蚕霊神社です。
 鳥居の下にある「蚕霊神社由来」によると、“孝霊天皇の5年(紀元前286)の春3月。豊浦浜(日川)の漁夫権太夫は、沖に漂う丸木舟を引き上げてみると、世にも稀な美少女が倒れていた。少女は天竺(インド)霖夷国霖光の一女金色姫。……”とその由来が書かれています。神栖町歴史民俗資料館の資料によると、“神栖町の日川(にっかわ)地区は、欽明天皇の時代(6世紀中頃)に金色姫がインドより養蚕を伝えた養蚕発祥の地と言い伝えられています。この地区にある蚕霊山千手院星福寺と蚕霊神社はもともとは一体のもので、養蚕の神として人々の信仰をあつめていました。『南総里見八犬伝』などで有名な滝沢馬琴も星福寺発行のお札を見て、衣襲明神(きぬがさみょうじん)の錦絵の文章を書いています”とあります。

 この資料はさらに、神栖の養蚕について、“町域では、農家の副業として明治中頃より養蚕が急速に広まり、明治時代末には繭の生産額が水産物を追い越すほどになりました。また、この鹿南地方は気候が温暖なため、蚕の卵を取る蚕種製造に適していたようで、昭和初期には4軒の蚕種製造業者の名前が見られます。その後、群馬県の蚕種製造業者が木崎地区に出張所を置き、また居切地区には鹿島蚕種共同施設組合の蚕種製造所ができました。これは県内でも一、二を争う大規模なもので、170軒もの農家に卵を取るための蚕の生産を委託していました。太平洋戦争が始まると食糧増産のため、桑園は芋畑に代わり、戦後も澱粉製造のためのさつま芋の生産が盛んとなり、養蚕業は衰退していきました。昭和30年代後半には、澱粉製造も下火になっていく中、再び養蚕が見直され、大野原地区や平泉地区では桑園を造成し、大野原養蚕組合も結成されました。組合は千葉県我孫子市の製糸工場と契約し、年6回の繭の出荷を行っていました。しかし、鹿島開発による住宅の密集化や繭の価格の下落などの理由から養蚕を続けていくことが困難となり、昭和58年をもって養蚕の永い歴史の幕を閉じたのです”と記されています(神栖町歴史民俗資料館第19回企画展「蚕物語−天の虫・糸の虫−」より)

※神栖町の蚕霊神社、つくば市の蚕影神社、日立市の蚕養神社の3つは、あわせて「常陸国の三蚕神社」と呼ばれています


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