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情報:農業と環境 No.101 (2008年9月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

徳川綱吉と土壌肥料学

1.江戸幕府は関東ロームの上に

世界史における文明の勃興 (ぼっこう) と衰亡が、水 (河川) や土壌と密接な関係にあることはよく知られた事実である。このことはまた、日本においても当てはまる概念であるが、詳しい考察はほとんど見たことがない。日本列島全体が、豊富な水と肥沃な土壌に恵まれているため、注意を喚起するに至らなかったのだろうか。

しかし、たとえば近世に発達した日本の大都市 「江戸」 をみると、やはり水や土壌と深い関係にあることが分かる。関東平野は、戦国時代まではほとんどが原野で人口も少なかったようだ。いくつかの大名が小さな領地を構えていたにすぎない。この地の土壌は、いわゆる 「関東ローム」 が大部分を占め、当時は農業に適さない土地だったのである。そしてこのことが、関東平野の発展を妨げていたと考えられる。

関東ロームは、箱根、古富士、赤城、榛名、浅間などの各火山から噴出した火山灰が厚く堆積 (たいせき) して粘土化したアロフェン質土壌である。この土壌の特徴は、リン酸の固定力がきわめて強いことで、この地で農業をするにはリン酸質の肥料を多く施用しなければ、まともな作物の生産は望めない。

関東平野に人口が増えるのは、徳川家康が江戸に幕府を開いてからである。家康は荒川や江戸川 (利根川の分流) の豊富な水量には注目をしただろうが、さすがに土壌のことまでは考えが及ばなかったかもしれない。

2.江戸の食料事情と農業

徳川幕府の軍事、政治、経済体制は、家康のシミュレーションに従って三代将軍家光の時代には、ほぼ確立する。増加する人口を賄(まかな)う食料(米) は、全国に配置した天領 (幕府直轄地) から集めて船などで江戸へ運んだ。関東ローム地帯では、米の生産量が十分ではなかったからである。

また、魚介類や海草は江戸湾でとれた 「江戸前」 や近郊の海や川でとれた産物で賄えたであろうし、干物はかなり遠方からも運ぶことができただろう。

しかし、貯蔵のできる米や干物は輸送で確保できても、生鮮食品の野菜については、当時の物流体制では遠隔地からの輸送は困難であっただろう。野菜を確保するためには、結局は江戸周辺で栽培するしかなかったと思われる。このことに苦心したのは、五代将軍徳川綱吉である。綱吉は、生母桂昌院の影響、あるいは寵臣 (ちょうしん) 柳沢吉保の影響などにより、江戸周辺での野菜栽培に大いに尽力することになる。

3.五代将軍綱吉と野菜栽培

三代将軍家光の四男であった綱吉は、異母兄の四代将軍家綱の後を継いで、上州の館林藩主から将軍の座に着く。綱吉は将軍就任後に、家臣から農業の情報を集めるとともに、公務や鷹狩で江戸城を出た時には野菜栽培に大きな関心をよせた。徳川将軍十五代の中で、もっとも農業に興味を示した将軍といえるかもしれない。「練馬大根」 の由来は、綱吉が下練馬村 (現在の練馬区北町) の農家にダイコンの栽培を命じたのが始まりである。また 「コマツナ」 は、綱吉が鷹 (たか) 狩で当時の小松村 (現在の江戸川区小松川) に出向いた際に献上され、そのおいしさに感嘆して命名したとされている。

この小松川地区は、荒川の氾濫原 (はんらんげん) で、関東ロームとは異なる土壌が広く分布する。つまり、この地域は荒川によって上流から運ばれた沖積土よりなり、これは養分を豊富に含んだ土壌なのである。またリン酸の固定力も小さい。したがって、当時の農民はこの地帯で野菜がよくできることを経験的に知っていたのだろう。

このような将軍様じきじきのお声掛かりにより、コマツナの栽培面積はますます拡大してゆくことになる。コマツナは現在でも、東京都の生産量が全国第一位なので、綱吉に由来する野菜栽培技術が現在まで継承されているとも言えるのである。

綱吉がなぜこのように野菜栽培に興味を示したのか、その要因はいくつか考えられるが、一つは生母の影響をあげることができよう。綱吉の生母として知られる阿玉の方(後の桂昌院)は京都の八百屋の出自である。八百屋の娘がひょんなことから江戸城に上がることになり、家光の寵を受け、徳松(後の綱吉)を産む。四代将軍の後継者問題でもめた後、幸運がめぐって綱吉が五代将軍の座に着くことになる。綱吉は将軍となってからもこの生母桂昌院にべったりで、今で言うマザコンだったらしい。京の八百屋育ちの桂昌院は、江戸の野菜の乏しさに不満をもち、綱吉に野菜栽培を奨励するように進言したかもしれない。このことがいやおうなしに綱吉をつき動かし、将軍の奨励により農家の野菜生産意欲が向上していったと思われる。

さらにその後、農家は江戸の市中から有償で下肥を引き取り、また干鰯 (ほしか) が肥料として使われるようになり、関東ロームの台地畑でも野菜栽培が盛んになる。

4.柳沢吉保の知恵と工夫

三富開拓三百年の記念碑(写真)

写真1 三富新田開拓300年の記念碑
埼玉県三芳町にて 筆者撮影

また綱吉は、かつて館林藩主だったころの家臣柳沢吉保を老中格の側用人 (そばようにん) として起用し、ともに儒学をはじめ中国の文献を読み漁(あさ)って知識を得る。その後、柳沢吉保は、元禄7 (1694年) に川越藩主に任ぜられるが、着任してわずか半年後に三富 (さんとめ) 新田 (現在の埼玉県三芳町から所沢市に広がる畑地帯) の開発に着手する。柳沢は、関東ローム地帯を開発するために、その地割に革新的な工夫を凝らした。すなわち、農家一戸あたり五町歩 (約5ha) という広い土地を配分し、その地割を細長い短冊状とした。そしてその表を屋敷地、裏を雑木林として、その中間を畑地にするというユニークな方法である。これは、雑木林の落ち葉を堆肥 (たいひ) として利用することを前提とした地割である。つまり、下肥や干鰯を運ぶには遠すぎる関東平野西部の台地では、落ち葉の利用がなければ作物の栽培は望めなかったのである。また落ち葉堆肥は、土壌の物理性改良効果もあり、畑作物の生産性向上に大きく寄与した。

このような科学的な発想ができた柳沢吉保という人物は、綱吉が見込んだほどの才覚の持ち主だったのだろう。一説によると、このような地割の方法は、中国宋代の政治家として知られる王安石が考案した新田開拓法に似ているとも言われている。将軍綱吉と柳沢吉保が、川越藩での農地開発をめぐって知恵をしぼり、文献を読み、ディスカッションする様子は、想像に難くない場面である。

落ち葉堆肥(写真)

写真2 現在でも落ち葉堆肥を作っている農家がある
埼玉県所沢市にて 筆者撮影

現在でも、この三富新田のあたりに行くと、当時の地割が一部残っており (写真1)、また落ち葉堆肥を利用した野菜栽培を続けている農家があることに驚く (写真2)。300年以上も続く農法とは、世界的にみても珍しいのではないだろうか。

なお、三富とは上富・中富・下富の三地帯を含んだ名称で、「富」 の名の由来は中国の孔子の教えに基づき、“豊かな村になるように” という柳沢吉保の熱望が込められているのである。当時の記録によると、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々ができあがったと記されている。

5.綱吉と江戸文化の繁栄と関東ローム

綱吉は、29年間の長きにわたって将軍の座にあったために、晩年は堕落して 「犬公方 (いぬくぼう)」 などとあだ名されることになるが、関東平野の野菜生産技術を発展させた功績は評価すべきと思われる。このような農業基盤の上に元禄文化が栄え、世界最大の100万都市 「江戸」 が形成され、独特な日本文化が成熟していくのである。

関東ロームは、江戸近郊の農民が苦労したように、当時の農業を行うには問題土壌である。しかしこれは、農業が土地のごく表層20〜30cmくらいを利用するためであって、もっと深い下層土壌まで含めると、関東ロームはそれほど問題土壌でもなくなる。樹木は根を土中に深く、広くまで延ばし、下層からも養分を吸い上げることができるので、関東平野でもよく育つ。武蔵野がかつては広大な雑木林で、庶民の生活に必要な薪 (まき) や木炭などの燃料を潤沢に供給していたことからも、そのことは想像できる。また、その落ち葉を肥料や土壌改良資材として利用することを思いついた上記の二人は、科学者の観察眼を備えていた異才とも言えるのである。

自然の恩恵による雑木林の生産力、そして人々の叡智 (えいち) と工夫による農業の発展、この二つが、関東ロームの上に世界に誇る江戸文化を築く大きな要因となったのである。

参考文献

V. G. カーター・T. ディール(山路 健訳):『土と文明』(家の光協会)1995

小野信一:『土と人のきずな』(新風舎)2005

関東ローム研究グループ:『関東ローム』(築地書舘)1965

良い食材を伝える会編:『日本の地域食材(2006年版)』2006

三芳町秘書室編:「明日をひらく(三芳町・町勢要覧)」2003

日本史広辞典編集委員会編:『日本史広辞典』(山川出版社)1997

日本歴史大事典編集委員会編:『日本歴史大事典』(河出書房新社)1985

篠田達明:『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書)2005

(土壌環境研究領域長 小野信一)

土壌肥料学にかかわるエッセイ(8回連載)

朝日長者伝説と土壌肥料学

司馬史観による日本の森林評価と土壌肥料学

徳川綱吉と土壌肥料学

リービッヒの無機栄養説と土壌肥料学

火山国ニッポンと土壌肥料学

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