先月紹介した 「キリマンジャロの雪が消えていく」 はアフリカ環境報告であったが、今回紹介する 「ヒマラヤ世界」 はヒマラヤをはじめとした世界の屋根、チベット高原の影響下にあるアジア地域の環境報告とも言える。アフリカとは状況は異なるが、地球環境変動が人々の暮らしに及ぼす影響を考える上で、極めて重要な地域の一つである。以下、内容の一部を紹介する。
ヒマラヤ山脈と北西に続くカラコルム山脈から流れ出す、インダス川、ガンジス川、プラマトラ川の流域に世界の人口の一割以上、8億人が住み、間接的には15億人がこの水の恩恵を受けている。神々の住むと言われた氷河きらめく山々も、急峻(きゅうしゅん)な渓谷地帯も、麓(ふもと)の大平原も、さらにはその下流の海抜ゼロメートルのデルタ地帯も、三大河の水に支配される一蓮托生(いちれんたくしょう)の「ヒマラヤ世界」と著者は考える。さらにヒマラヤから東と西へ流れ出す河川の水に依存する世界を考えると、世界人口の半数以上がこのヒマラヤ世界で生活していることになる。本書はヒマラヤの山岳地帯からインドヒンドゥスタン高原、さらには河口まで、この世界でいま何が起きているかを紹介するルポルタージュである。
世界の屋根チベット高原を中心に、東は中国四川省、西はパミール高原、ヒンズーシュク山脈までのびるこの 「屋根」 一帯は、南極、北極、グリーンランド、アラスカに次いで、地球で5番目に大きい淡水貯蔵庫である。南から流れ込む季節風モンスーンが湿った空気を運び、高い山々にぶつかって雨や雪となり、氷雪となって蓄えられる。アジアの気候はこの世界の屋根に支配されており、気候変動で貯蔵庫の氷雪が減少すると流れ出す河川も渇水となり、人々の生活に大きな影響が現れる。世界の半分以上の人々がここに暮らしている。
高地、シェルパ族の里では、急斜面が切り開かれ、焼き畑農業が営まれている。さらには世界的なトレッキングのブームの影響でロッジの建設ラッシュが続き、野放図な森林伐採による森林の衰退が進む。泥炭は燃料として掘り出され、二度と元には戻らない。
氷河の末端にはモレーンの天然ダムでせき止められた氷河湖が生まれ、氷河の融解により膨張してある日突然天然ダムを突き破り、下流に大被害を及ぼす。ヒマラヤにある無数の氷河湖で、決壊の懸念が高まっている。
ヒマラヤの水は、ヒンドゥスタン平野まで下ってくると、農地を潤し、産業用水や工業用水にも利用される。19世紀半ば、この地域に入ってきた英国は、灌漑(かんがい)水路網をめぐらせ、自然大改造によりコムギの大供給地を作り上げた。パキスタンでは幹線水路(運河)だけで総延長5万7千キロに及ぶ。
20世紀後半の緑の革命の成功で、インドの農民の中ではパンジャブの農民は豊かだという。しかし、夏場のイネ、冬場のコムギの単一栽培により在来の多様な農作物や品種は激減し、井戸の過剰くみ上げの結果地下水位は低下して水危機を招くなど、その豊かさは足下から崩れかけていると指摘する。
下流のデルタ地帯、ガンジス川がベンガル湾にそそぐまでの1,000キロの高低差はわずか30メートルしかなく、川は行き場を求めて右往左往して流れる。洪水の常襲地帯であるバングラデシュでは、人々の暮らしは洪水との共生関係にあり、大自然の前には堤防による治水は用をなさない。
バングラデシュでは川や池の水を飲んでいたが、人口増による水質汚染・衛生の問題から、建国後、国民すべてに清潔な水を提供するプロジェクトをスタートさせ、ユニセフの先導で多くの井戸が掘られた。しかし、地下水がヒ素に汚染されていたため、そのことが広範なヒ素中毒を招く結果となっている。
神々が住むといわれるヒマラヤ、豊かなヒンドゥスタン平野。しかしその自然は驚くほど脆弱(ぜいじゃく)である。ヒマラヤ世界各地では深刻な状況が生まれているが、そこで起きていることは、ブラジルのアマゾンの熱帯雨林の破壊などとは異なり、「五千年がかりで試行錯誤しながら進めてきた開発の積み重ね」 であると指摘する。世界の半数以上の人々が暮らすこの地域、五千年の歴史を持つ文明は、気候変動が進む中、どこへ向かおうとしているのであろうか。
目次
第1部 ニム・マガールとの旅
1章 エベレストの麓
2章 高ヒマラヤの内ふところ
第2部 ラクパ・シェルパとの旅
3章 崩壊するヒマラヤ
4章 共生とは
5章 小水力発電所
6章 人間、ささやかに生きられないか
第3部 ヒンドゥスタン平野
7章 東西3000キロの大回廊
8章 緑の革命の反作用
9章 洪水常襲平原
10章 群島国家バングラデシュ