ネムリユスリカって?
ネムリユスリカとは
クリプトビオシス
驚くべき耐性
なぜ乾燥に強いのか
トレハロースの役割
耐性を得るには・・・
ユスリカは、昆虫の分類上はハエやカの仲間で、吸血はしません。日本にも多く生息していて、春から夏にかけて“蚊柱”を作るのはユスリカのオスです。
その仲間のネムリユスリカ Polypedilum vanderplanki は、アフリカのナイジェリア、マラウィなどの半乾燥地帯にある岩盤地域に生息する種類です。この地域は赤道に近く、一年中比較的高温で雨季と乾季が比較的はっきり分かれています。乾季になると8ヶ月もの間、一滴も雨が降らないこともあります。
  アフリカの地図と岩山と水たまり
ネムリユスリカの幼虫は、岩盤の小さなくぼみに出来た水たまりにいます。底にたまった泥の中の有機物やバクテリアを餌に生活しています。水たまりは、日中の水温が40℃を超え、1週間も雨が降らないとあっという間に干上がってしまいます。ですから、このネムリユスリカ以外のユスリカや、天敵となる昆虫(ヤゴなど)は生息できません。

ではどのようにしてネムリユスリカは生き延びるのでしょうか。ネムリユスリカは、水中の泥などをつづって管状のという巣を作りその中にいます。水が干上がると、幼虫も巣管の中で少しずつ乾燥していき、最後には体内の水分が3%以下になるまで乾燥します。そして次に雨が降るのを待つのです。
ネムリユスリカ幼虫と干上がった水たまり
待ちに待った雨が降って水分に触れると、幼虫は短時間のうちに吸水して、元の幼虫の状態に蘇生します。この間、およそ1時間程度で元のように元気に水中で動き回ることができるようになります。そして、また成長をはじめるのです。もし、もう一度雨が降らなくなったとしても、また同じように乾燥して次の雨を待つことが出来ます。このような能力は、孵化直後を除いた幼虫の時期であればいつでも持っていて、卵や蛹、成虫の時には持っていません。
ユスリカの乾燥・蘇生の様子はこちらをClick!→
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ネムリユスリカの生活史
人間の体には約80%の水が含まれていて、生命の維持に必要な代謝(体や細胞内での物質の変化)や、体の構造を構成する要素として重要な働きをしています。ですから体重のわずか10~12%の脱水でも生命の維持が難しくなります。しかしネムリユスリカは、およそ97%の水分が奪われた状態でも生き続けることができます。もちろんこの脱水状態では、通常の代謝は行われていません。

このような無代謝の状態で生き続けることが出来る能力を、クリプトビオシス(Cryptobiosis、隠された生命という意味)といいます。これはほかの昆虫などで見られる、低代謝の状態を保つ休眠(Dormancy)とは異なります。この現象は、ワムシ(輪形動物)などの微生物で18世紀初頭から知られていて、その後に提唱される自然発生説の根拠にもなっていました。クリプトビオシスを行う生き物には、菌類の胞子、植物の種子、アルテミア(ホウネンエビの仲間)の卵などのように親の世代が乾燥を予知して、次の世代のクリプトビオシスの準備を行うものと、ワムシ、線虫、クマムシ、昆虫類のように、自らが乾燥状態に反応してクリプトビオシスを行うものとがあります。後者は、乾燥と蘇生を何度も繰り返すことができることが特徴です。ネムリユスリカは、昆虫類でこの能力が判っている唯一の昆虫であり、またクリプトビオシスを行う生物の中でもっとも高等で大型な生物といえます。
クリプトビオシスの
入り方
親世代が乾燥を予知 自らが乾燥状態に反応
主な生物


菌類の胞子

植物の種子

アルテミアの卵

 

ネムリユスリカ

ワムシ

線虫

クマムシ 

乾燥と蘇生の
繰り返し
×
なお、クリプトビオシスは、ネムリユスリカのように乾燥により水分が奪われた場合に起こるアンハイドロビオシス(Anhydrobiosis)、高浸透圧の外液によって水分が奪われて起こるオスモビオシス(Osmobiosis)、生物が氷結したときに起こるクリオビオシス(Cryobiosis)、外界の酸素濃度が代謝を維持するのに必要なレベル以下になったときに起こるアノキシビオシス(Anoxybiosis)の4種類に分類されています。
驚くべき耐性
乾燥状態にあるネムリユスリカは、アフリカの数ヶ月に及ぶ乾季を生き延びるだけでなく、さらにいろいろな過酷な状況にも対応できる能力を持っています。生存期間のもっとも長いものでは、乾燥幼虫をデシケーター(乾燥剤をいれ常に湿度を落とした状態の容器)に17年間保管した後、水に入れると蘇生したという記録があります。反面、高湿度に置かれると乾燥幼虫は吸湿してしまい、蘇生率が徐々に下がってしまいます。“水分がない”、ということがクリプトビオシスの維持には大切なのです。

温度に対してはもっと驚くべき耐性を示します。普通水中で泳いでいる幼虫は、43℃で1時間以内、5度では短期間のうちに死んでしまいます。ところが乾燥幼虫では、103℃で1分間処理をした幼虫は室温で水に戻すと動き出し、一部は無事に発育を続けて成虫になります。さらに106℃で3時間、または200℃で5分処理をしても蘇生する個体がいます。一般に、生物にあるタンパク質は70℃までに完全に変性したり、活性が失われたりすることを考えると、この高温耐性は驚異的なものといえます。高温とは逆の、低温に対しても耐性は著しく高まり、乾燥幼虫は-270℃で5分、または-190℃で77時間処理されても、その後の発育や変態にまったく影響はありません。

また、一般に生物の実験で組織を観察する際に、組織の固定、脱水に使われる100%エタノールでは、乾燥していない幼虫を浸すと1分以内に死んでしまいます。ところが乾燥幼虫では、168時間浸しておいても水に戻すと蘇生し、一部は成虫にもなることができます。おもしろいことに、エタノールに少しでも水を加えると、その後幼虫を水に戻してもまったく蘇生してこなくなります。これは加えた水分が幼虫体内の細胞や組織に吸着されることにより、安定したクリプトビオシスの状態がかく乱されると同時に、エタノールによる固定効果がおこることによるものと考えられます。このことからも、乾燥幼虫がほぼ完全に脱水されていることが裏付けられます。
ネムリユスリカの能力
次に放射線に対してはどうでしょうか。一般に、脊椎動物より昆虫類のほうが放射線に対する耐性は強いといわれています。種によりますが、大体200~2000Gy(グレイ:放射線吸収量の単位)の放射線を浴びると死に至ります。乾燥していないネムリユスリカの幼虫も、2000Gy以上になる死亡する幼虫がほとんどとなります。しかし、乾燥しクリプトビオシスの状態にあるネムリユスリカは、7000Gyの放射線を浴びた後、水に戻して48時間後でも生存できる幼虫がいることがわかりました。この幼虫は、その後蛹になることはありませんでしたが、クリプトビオシスの状態における放射線に対する耐性は、驚くべきものであるといえます。
なぜ乾燥に強いのか
ネムリユスリカが乾燥に強く、またいろいろな環境ストレスにも耐性を持つのには理由があります。

環境ストレスにさらされたとき、水に代わって生体成分を保護するために体内に蓄積されてくる低分子の化合物を、適合溶質と呼んでいます。適合溶質としては糖類やプロリンなどが知られていて、いろいろな環境条件への耐性向上に関わっていることが知られています。ネムリユスリカの場合、その適合溶質は糖類のトレハロースということがわかりました。トレハロースはもともと昆虫の血糖なので、乾燥していない幼虫でも体液中に0.5~1%程度存在しています。ところが、乾燥にさらされると、急激にトレハロースの合成を行い、最終的には約20%にも達します。乾燥耐性を持たない日本産のセスジユスリカChironomus yoshimatsuiでは、同じような乾燥条件においても、トレハロースの蓄積が見られず、死んでしまいます。このように、ネムリユスリカの乾燥耐性にはトレハロースの増加が重要であることがわかります。

ただ、ネムリユスリカの幼虫をどんな風に乾燥しても必ずトレハロースを合成して蘇生する、というわけではありません。急速に乾燥させた場合は、幼虫はほとんどトレハロースを蓄積することができず、水に戻しても蘇生できません。しかし、時間をかけて周りの湿度を徐々に下げていくと、大量のトレハロースを蓄積し、また蘇生も可能となります。クリプトビオシスの誘導にはある程度の準備期間が必要あり、また乾燥する速度も重要であることがわかります。
トレハロースの役割
クリプトビオシスに重要な働きをしているトレハロースとは、どんな物質でしょうか。
トレハロースの構造
トレハロースは二糖類(ブドウ糖が二つ結合したもの)で、自然界の動植物や微生物、また海水中にも存在する糖類です。私たちが口にする食品にも多く含まれ、たとえばきのこ類、海藻類、エビなどに含まれています。干ししいたけを、水に戻すと元の状態に戻るのも、トレハロースのはたらきによるものです。また昆虫の血糖にもなっています。
トレハロースを含むもの
トレハロースは、クリプトビオシスを行う細菌やカビの胞子、酵母、線虫、クマムシ(緩歩動物)、アルテミア(ホウネンエビの仲間)の卵、さらにイワヒバの仲間のような復活植物(resurrection plant)でも適合溶質として知られています。このように植物から動物まで、いろいろな分類群の生物で適合溶質として選択されているのは、体内に大量に存在しても無害であって、また体内で合成や分解が比較的簡単にできることが挙げられます。さらにその物理化学的な性質から、糖類の中でもきわめて高い乾燥保護作用をもつということがわかってきています。トレハロースは、水とよく似た水酸基の配置を持つため、細胞膜やタンパク質の構造に含まれる水と容易に置き換わりやすい性質があります。また高濃度になると、ガラス化(成分が結晶化したり溶けたりせず、成分中の分子の運動が極端に安定な固形状態)しやすく、生体成分の運動性を低下させることによってその変性を防ぐことができます。これら多くの優れた性質が総合的に作用して、初めてクリプトビオシスが可能になっていると考えられます。
耐性を得るには・・・
ネムリユスリカの幼虫は、どのような環境の変化を手がかりにトレハロースの爆発的な合成のスイッチを入れるのでしょうか。乾燥中の幼虫体内の水分とトレハロースの含まれる量の変化を調べてみると、トレハロースの合成開始は、水分含量が75%以下になる時点とほぼ一致していました。おそらくネムリユスリカの体内には、水分量の減少に伴う物質の変化をキャッチする機構があると考えられます。

多くの昆虫で、発育や繁殖に適していない季節を休眠状態で生き抜いています。そのしくみは、光周期や温度などの環境条件の変化を脳で処理して、ホルモンなどを分泌して休眠状態になります。ネムリユスリカのクリプトビオシスの場合はどうでしょうか。こんな実験を行いました。水中で幼虫を細い糸で縛り、頭部と胸腹部、または頭胸部と腹部に分けて切断して、それぞれ腹部を含むほうを乾燥させました。すると、無傷の幼虫の半分ほどの量のトレハロースを蓄積して乾燥状態に入り、さらに水に戻すと蘇生することがわかりました。これは、クリプトビオシスの誘導や蘇生に関連する一連の生理機構に、脳がまったく関わっていない事が証明されたことになります。このようにクリプトビオシスには、休眠などとはまったく別のプロセスが存在することが明らかになってきています。
幼虫の断頭実験