今年10月18〜29日に名古屋で開催される第10回生物多様性条約締約国会議は 「COP10(コップテン)」 という通称でメディアに登場する機会が多くなった。COP10の前週、10月11〜15日には第5回カルタヘナ議定書締約国会議 (MOP5)(モップファイブ) も開催されるが、最大の課題はカルタヘナ議定書に残された宿題 「第27条、責任と救済(補償)」 の採択だ。当初から途上国と先進国グループで対立し、2000年1月に議定書が採択された際も条文の中味は空白のまま見切り発車した難題だが、2008年5月ドイツでのMOP4、2009年2月メキシコでの特別作業部会(共同議長フレンズ会合)を経て、ようやく合意の道筋が見えてきたかに思えた。しかし、2月8〜12日マレーシアでの2回目会合は途上国と先進国グループの意見対立が再燃し、決着は6月のモントリオール会合に持ち越された。「責任と救済」 とは遺伝子組換え生物の国境を越えた移動によって、生物多様性の保全と持続的利用に損害 (有害な影響) を与えた場合の事業者の責任義務と救済 (補償) 措置に関する取り決めであるが、会議を重ねても国境を越えた移動の結果生ずる生物多様性に与える 「損害」 の具体像が見えてこない。これが交渉が難航、空転する原因だ。
2009年5月 メキシコ・トウモロコシ種子流通事情
2009年2月にメキシコで開催された 「責任と救済」 に関する第1回共同議長フレンズ会合では、(1)法的拘束力を持った文書とする、(2)空白の議定書第27条に条文を書き込むのではなく別途補足議定書を作成する、(3)民事責任に関する事項は法的拘束力を持たない指針 (ガイドライン) とする――などの方向で参加国全体の合意が得られた。条文や付属文書の文案を次のフレンズ会合 (2010年2月、マレーシア) までに作成し、そこで詳細を詰めることになった。メキシコはトウモロコシの栽培起源地でもあり、グリーンピースなど環境NGO(非政府組織)は会議場周辺で 「メキシコのトウモロコシ在来種を遺伝子組換え品種の汚染から守れ」 という示威行動も行った (農業と環境109号)。
2009年5月、カリフォルニア大デービス校とメキシコ自治大学のグループは 「メキシコのトウモロコシ種子流通体系を通した遺伝子組換え産物の分散状況」 という論文を発表した (Dyer ら, 2009)。メキシコでは2001年に南東部のオアハカ州でトウモロコシ在来品種 (地方品種) から遺伝子組換え産物 (タンパク) が検出され、Nature 誌などで大きく報道された。Dyer らは 「花粉飛散による交雑だけでなく、農民の種子入手ルートも無視できない」 として、2002年にメキシコ全土の農家から合計736ロットの種子サンプルを入手し、組換え遺伝子 (グリホサート耐性とBt遺伝子) の有無を調べ、さらに種子の入手・購入先も調査した。
メキシコのトウモロコシ栽培地域は大きく2つに分けられる。北部や西中央部は大規模農家が市販種子 (交配品種) を毎年購入して栽培するのに対し、南東部や中央部の標高の高い地域では小規模農家が多く、種子も毎年購入するのではなく自家採種している。また在来品種の自家採種だけでなく、市販の交配品種と在来品種を自ら掛け合わせて、混交品種 (creolized variety) を作っている例も多い (Bellon ら、2004)。今回の調査結果はそれを裏付けるもので、南東部や中央部の農家では種子会社から購入する割合は1〜2%で、ほとんどは他の農家からの入手 (譲渡や交換) だった(表1)。さらに南東部では調査ロットあたり5.6%でグリホサート耐性(NK603)、7.6%で害虫抵抗性Bt(MON810とBt11)遺伝子が検出された。メキシコでは1996〜97年にBtトウモロコシが小面積栽培されたが1998年に禁止され、現在まで商業栽培は認められていない。Dyer らは西中央部のBt遺伝子の検出率(2.9%)は、米国から違法に持ち込まれた種子によるものと説明できるが、南東部での検出率の高さはそれだけでは説明できないと述べている。飼料や食物用に米国から輸入したトウモロコシを流用したか、国境地帯から違法ルートで入ってきた種子かは不明だが、南東部の農家は除草剤耐性や害虫抵抗性品種とは意識せず、従来の交配品種と同じ感覚で他の農家から入手し、さらに在来品種との掛け合わせに用いているようだ。害虫抵抗性はともかく、グリホサート耐性は除草剤を散布して雑草防除の効率化をはかって初めてメリットのある性質だ。農家は自分たちの入手した種子がそんな特性を持っていることを知らないし、期待もしていないのだ。Dyer らは今回の調査から 「トウモロコシの栽培起源地、遺伝資源多様性の中心地を保全するためには、政府が考えている北部、西中央部でのみ商業栽培を認可するという対策では不十分だ」 と述べている。確かにそうだが、ではどうするのかという対策は示していない。環境団体など組換え作物反対派からも、今回の論文への反応はほとんど出されていない。自給的小規模農家が従来の採種・育種感覚でやってきたことを 「遺伝子汚染だ。メキシコの伝統農業を破壊する」 と非難するわけにはいかないのだろうか。
表1 メキシコ農家のトウモロコシ種子入手先と貯蔵種子の遺伝子組換え種子発現割合(2002年調査)
種子入手先 (%) | 組換え遺伝子の発現割合(ロット単位) (%) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
地域 | 農家 | 組織・団体 | 種子会社 | 除草剤耐性 | 害虫抵抗性Bt | |
南東部 | 95.5 | 0.8 | 0.8 | 5.6 | 7.6 | |
中央部 | 92.9 | 2.6 | 2.1 | 0.0 | 0.0 | |
西中央部 | 64.0 | 5.4 | 17.1 | 0.0 | 2.9 | |
北部 | 54.5 | 18.2 | 14.3 | 0.0 | 0.0 | |
国全体 | 85.5 | 3.4 | 5.2 | 1.8 | 3.1 |
2010年2月 インド・組換えBtナスの商業栽培承認延期
インド東部はナス (Solanum melongena) の栽培起源地で今も多様な品種が栽培されており、総栽培面積は約55万ヘクタール、中国に次いで世界2位のナス大国だ。そのインドで昨年秋から組換えナスの商業栽培承認をめぐって大論争が続いた。ナスの実に潜って加害するナスノメイガ (Leucinodes orbonalis) など鱗翅(りんし)目害虫に抵抗性を示すBt品種 (Cry1Ac遺伝子導入) で、インドのマヒコ社とモンサント社の共同開発によって育成された。2002年からヒト・動物・環境への影響試験を行い、2008年にインド政府に8品種の商業栽培を申請し、2009年10月14日、遺伝子工学承認委員会(GEAC)は安全性に問題なしとして申請を認めた。ところが翌15日、GEAC を管轄する環境森林省の Ramesh 大臣は 「最終的な承認は広く国民の意見を聞き、公聴会を開催してから決める」 と承認を先送りした。農業大臣や科学技術大臣は 「賛成、GEAC の決定に従うべき」、厚生大臣は 「反対、ワタと食用ナスは違う」 など政府内でも意見は分かれ、反対派NGO、農民団体、推進研究者団体などが今年1〜2月に全国7都市で開催された公聴会で議論を闘わせた。公聴会終了直後の2月9日、環境大臣は 「賛成・反対各派や専門家から多くの意見を聞いた。開発メーカーから出された安全性データだけではBtナスに懸念・不安を抱く人々の信頼を得られない」 として、「独立機関による健康や環境への長期安全性評価試験が終了するまで承認は延期」 と発表した。
Btナスの商業栽培に懸念を示す研究者からは、「インドはナスの栽培起源地であり、今も2500以上の在来品種が各地で栽培されている。Btナスの商業化によって、交雑や品種の多様性が失われる可能性がある」 と懸念する声もあがった。ナスは自家受粉性の強い作物で、メーカー提出データでも花粉飛散は最大30メートルで交雑率はひじょうに低いとされている。栽培品種同士でも他花との交雑率は低く、さらに野生種や遠縁の在来品種になればなるほど交雑率は低くなると考えられる。しかし、ハナバチ類によって花粉が遠くまで運ばれ受粉する可能性はゼロではないので、生物多様性保全の観点からの懸念をまったく無視することはできない。インド政府が今後、Btナスに対してどのような追加試験を指示するのか現時点では不明だ。政府自体は組換え(バイテク)作物の開発に否定的ではなくむしろ積極策をとっており、ナス以外にも、国公立機関や大学でイネ、オクラ、トマト、ヒヨコマメ、落花生、ジャガイモなど食用組換え作物の開発が進められており野外試験も多数行われている。Btナスに課せられる長期影響試験は、その内容や期間によっては純インド産の組換え食用作物の研究開発にも大きな影響を及ぼすことになる。
2010年2月 マレーシア「責任と救済」フレンズ会合物別れ
10月名古屋で 「責任と救済」 条項を採択するためには今回の2月会合がタイムリミットのはずだった。首都クアラルンプール近郊のプトラジャヤ国際会議場で8日から12日までの5日間、毎日10時から深夜まで交渉が行われたが結局草案の合意には至らず、もう一度6月17〜19日にモントリオールで会合を開くことを決めて、12日深夜(13日午前2時20分)閉会となった。もっとも紛糾し、意見の対立が目だったのは補足議定書の13条 「民事責任」 とその附属書となる 「民事責任に関する指針」 である。前回会合で 「法的拘束力のない指針とする」 ことで合意したはずの民事責任の取り扱いについて、アフリカなど途上国グループがより強い国際的義務を課す文面を求めたようだ。また、民事責任に対応する各国国内法の国際的調和の難しさや、厳格な規制を定めることによって新たな非関税障壁となる可能性なども指摘された。
2010年10月 名古屋
カルタヘナ議定書は27条を除いても成立までに長い時間を要した(農業と環境103号)。1995年11月の第2回生物多様性条約締約国会議(COP2)で遺伝子組換え生物の利用に関するバイオセーフティ議定書を作ることは決まったものの作業は難航し、幾多の会議を経て1999年2月カルタヘナ(コロンビア)での特別締約国会議(ExCOP)も土壇場でまとまらず、2000年1月モントリオールの再会議でようやく採択された。モントリオール会議については、「最終日の1月28日も徹夜の交渉が続き、採択は29日早朝4時過ぎだった」、「条文の一部(第27条)の成文化を先送りにするなど、議定書の中味より批准することだけが目的という様相を呈した」、「下手に議論を始めると収拾がつかなくなるので、会議終盤は各国とも議定書の記述が具体的に何を意味するのか議論しなくなった。今後、議論が再燃することは間違いない」と毎日新聞(2000/2/3)は報じている。27条「責任と救済」を先送りにしても、他の多くの課題で難航した議定書だ。本議定書のほかに補足議定書を追加することとなった 「責任と救済」 の成文化が紛糾しまとまらないのは当然かもしれない。
マレーシア会合では補足議定書の 「再評価の期限(14条)」 についても議論された。EU代表から 「生物多様性に対する重大な損害について、具体的な事例・情報が得られてから再評価してもよいのではないか」 と提案されたが、結局 「補足議定書発効後5年ごとに再評価する」 という表現になった。6月17〜19日のモントリオールでの第3回(最終回?)フレンズ会合で合意が得られるとは限らない。今回もっとも紛糾した民事責任に関する部分だけでなく、一応合意に達した条項にもいくつかの選択肢を残したもの、カッコ付きで保留になっている部分も多数ある。仮に6月会合で合意が得られても、すべての議定書締約国に文書(草案)を回覧し確認を得なければ、10月名古屋の本会議ですんなり採択とはならないだろう。
2012年 インド
昨年12月にコペンハーゲンで開催された気候変動枠組条約締約国会議(COP15)での地球温暖化対策、温室効果ガス削減目標の交渉と異なり、「責任と救済」 条項は緊急に成立を要する課題ではない。「遺伝子組換え生物の国境を越えた移動によって生ずる生物多様性への損害」 は今まで実際に起こっておらず、強い法的拘束力のある条文を要求する途上国グループやNGOも、将来想定される損害(ダメージ)を含めて具体像を示すことができない状態だ。10月の名古屋で採択されなくても数年内に地球上の生物多様性に損害を与えることはないだろう。「国境を越えた移動によって生ずる組換え生物による生物多様性に与える損害」 とは何か? 漠然と遺伝子組換え生物を一括して扱うのではなく、植物 (作物)、動物、微生物など生物分類群ごとに分けて考えてもよいのではないか。これなら科学的ベースに基づく議論も進展するように思うが、このようなアプローチを採用する気配はないようだ。名古屋の次の生物多様性条約締約国会議(COP11)は2012年にインドで開催される予定だ (正式には名古屋で決定するが、現時点で開催意思を表明しているのはインドのみ)。「責任と救済」はそれまでに決着しているのだろうか? また、インドの害虫抵抗性Btナスの商業栽培は承認されているのだろうか?
おもな参考情報
カルタヘナ議定書会議
第2回フレンズ会合(マレーシア、2010/2/8〜2/12)の速報(2010/2/15)と会議状況
http://www.iisd.ca/download/pdf/enb09495e.pdf
http://www.iisd.ca/biodiv/bs-gflr2/
農業と環境100号「GMO情報:カルタヘナ議定書の宿題「責任と救済」―結論は2010年名古屋へ持ち越し」
http://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/magazine/100/mgzn10009.html
農業と環境103号「GMO情報:カルタヘナ議定書発効5周年 〜ルーツの1992年から振り返る〜」
http://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/magazine/103/mgzn10307.html
農業と環境109号「GMO情報:メキシコ・トウモロコシ在来品種との交雑は生物多様性に与える重大な損害か?」
http://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/magazine/109/mgzn10908.html
メキシコのトウモロコシ種子流通事情
Dyer G.A. et al. (2009) Dispersal of transgenes through maize seed systems in Mexico.PLoS ONE 4:(5)/e5734(電子版2009/05/29)(メキシコのトウモロコシ種子流通体系を通した導入遺伝子の分散状況) http://www.plosone.org/article/info%3Adoi%2F10.1371%2Fjournal.pone.0005734
Bellon et al.(2004) Transgenic maize and the evolution of landrace diversity in Mexico. The importance of farmers’behavior. Plant Physiology 134: 883-888. (メキシコにおける遺伝子組換えトウモロコシと在来品種の多様度の進化.農民行動の重要性)
インドの組換えBtナス承認延期
Jayaraman K.S. (2009) Transgenic aubergine put on ice. Nature 461:1041.(2009/10/22号)(組換えナスの承認凍結)
Bagla P. (2010) After acrimonious debate, India rejects GM eggplant. Science 327:767.(2010/2/12号)(激しい議論の後、インド政府は組換えナスの商業栽培認めず)
(生物多様性研究領域 白井洋一)