2015年春、農研機構 農業機械研究部門(旧農業技術革新工学研究センター)(さいたま市)で発見された古いガラス乾板について、
平成30年10月19日のプレスリリースで概要を紹介したところですが、このたびその一部を公開できる運びとなりました。
「農林水産省百年史」によりますと、日本における農具施策の出発点は、明治8年の勧業寮農務課樹芸掛から分化した農具掛新設時とされています。その背景は農業の旧態からの脱却が労働手段如何であり、海外良器の輸入に加えてその製作・試用をなすべきとの考えでした。この頃、農具の収集が2回行われています。1回目は明治5年に内国農具の多様さを知るため、2回目は明治9年、当時欧米などから数多くのプラウ、馬曳器械などの農具が輸入されていたことを背景に、精良であるが高価な西洋農具に代わり、小農に適する廉価な在来農具を選択するためとされています。輸入農具は内藤新宿試験場(明治5年設置)、三田農具製作所(明治12年設置)等で試用され、実用に適するものは模製または改良製作して各府県等に払い下げられていますが、農具模製の狙う目的の一つは農業特産物の伸張を促すことであるというのは、現代の農業機械化にも通じるものと思われます。明治21年に三田農具製作所は役目を終え民間に払い下げとなり、一つの流れが終わります。この間、明治9年には札幌農学校、明治10年には駒場農学校等が設立され、人材養成も進められました。
明治24年に農学会が提案した「興農論策」を基に、明治25年に農事試験場設置法案が可決成立して、明治26年に農商務省農事試験場本場(現、東京都北区西ヶ原)が創設されます。その後、日清・日露戦争を経て、明治44年農事試験場種芸部に農具係を設置して関連する研究が始まります。その動機は、「農業技術研究所八十年史」によると、明治41年農商務大臣大浦兼武の英国出張に、当時農商務省農事試験場職員(のちの農事試験場場長)安藤広太郎が随行し、欧州各国における農機具の調査を行った結果、日本国内農機具の改良発達を図ることを痛感したためであると記されています。
これを機に優良農機具普及奨励のための共進会制度(明治44年~昭和27年)、製作業者の指導に重点を置く依頼調査制度(大正2年~昭和16年)、発明考案を奨励した懸賞募集制度(大正9年~昭和13年)、実用的な性能を競った農機具比較審査制度(大正10年~昭和18年)が発足し、農事試験場はこれら制度の中心にあって各種農機具の開発改良を促し、性能向上に大きく寄与しました。
大正13年には農事試験場鴻巣試験地(現、埼玉県鴻巣市)が発足しました。農機具試験施設の完成を待って大正15年に担当者7名が鴻巣へ異動し、農業機械の近代化に関する本格的な試験研究が始まります。直流電気動力計等測定機器の試作や各種作業機の測定・評価方法の開発等を精力的に進め、世界の最先端を歩んでいたと、当時の農事試験場職員(弊センターOB)は自負しています。
今回発見されたガラス乾板を、これまでに得られた知見を基に特定すると、おおよそ大正末期から太平洋戦争が終結する昭和20年頃までのもので、各種作業機は人力式・畜力式から石油発動機や電動機を軸とする動力式へ動き出した一大変革の時代の写真と考えられます。時代を反映して、職員の出征や石油代替燃料としての木炭瓦斯発生機なども含まれています。往時の研究開発の現場や農業機械化の礎を築いた人物の足跡を、質感豊かなガラス乾板で辿れるのは、当時の世相や農具の変遷の一端を知る上で貴重であり、農業機械化黎明期のレガシーといえましょう。
今回の調査にあたり、多大な時間を割いて貴重な記憶や知見を伝えて下さった諸先輩の皆様に、敬意をもって厚く御礼申し上げます。写真の内容に関する調査は現在でも続いており、整理でき次第少しずつ公開していく予定です。情報をお持ちの方は、下記までご連絡下さいますよう、お願いいたします。
令和元年6月吉日