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情報:農業と環境 No.103 (2008年11月1日)
独立行政法人農業環境技術研究所

火山国ニッポンと土壌肥料学

1.日本列島は火山銀座

日本は火山国である。専門家によれば、日本の中に活火山は86個もあるという。いくつもの火山が、太古から大きな噴火を繰り返してきたようであるが、最近では、雲仙普賢岳 (1990年)、有珠山 (2000年)、三宅島 (2000年) などの噴火が記憶に新しい。

日本一の山とたたえられる富士山もまた、活火山の一つである。実は、富士山は三つの火山からできているらしい。古富士火山、小御岳 (こみたけ) 火山、新富士火山である。前者二つの火山の上に溶岩流が積み上げられて新富士火山ができて、現在の富士山が誕生したということだ。いまから約1万年前のことらしい。いまの富士山ができる以前に、古富士火山が大爆発をして大量の火山灰が噴出し、現在の関東ローム層の一部になったのである。

近世の記録では、五代将軍綱吉の晩年、宝永4 (1707) 年に富士山が大噴火をしている。新井白石の 『折りたく柴の記』 には、「最初は白い火山灰が雪のように降り、それから黒い火山灰に変わり、昼間も薄暗くなってしまい、燭 (しょく) をつけて講義した」と自らの経験談が記されている。また、新田次郎の時代小説 『怒る富士』 には、この宝永の富士山噴火による幕府の混乱、庶民の不安とパニック、農業の被害などがリアルに描写されている。何日も降り続いた火山灰は、横浜で10cm、江戸で5cmも積もったという。

火山灰は、火山の噴火規模が大きければ、かなり上空まで噴き上げられ、偏西風にのって遠くまで運ばれる。約4万年前に大爆発した阿蘇山の火山灰は、日本列島各地に広く、遠くまで運ばれ、降り積もった。最近の調査によれば、この時の阿蘇火山灰は、なんと北海道まで達しているという。北海道東部の土層には、厚さ約10cmの阿蘇カルデラ由来の火山灰土層が確認されている。自然力の絶大さと驚異を感じる。

このように、日本列島には、太古から、何度も火山灰が降り注いでいるが、とくに多量の火山灰が積もった場所には 「黒ボク土」 が生成した。

黒ボク土地帯の土壌断面(写真)

写真1 黒ボク土地帯の土壌断面
(大分県九重町にて筆者撮影、図1のB)

2.黒ボク土は日本の特徴

土壌のでき方には、おおよそ二とおりある。一つは、岩石が自然風化してできるプロセスで、数万年単位の時間を要する。もう一つは、地上に降下した火山灰が風化してできるプロセスで、こちらは数千年単位であり、時間は短い。

日本には、火山灰の風化物からできた土壌が多くある。とくに北海道、東北、関東、九州には、いわゆる黒ボク土とよばれる火山灰土が広く分布している(図1)。語源は、“黒くて歩くとボクボクする土”からきているようだ。

戦後、日本の土壌を調査したアメリカの土壌学者が、黒ボク土の黒さに驚いて、これを ando (暗土)と呼び、それが語源となって土壌分類の中に “andosols” の土壌目が設けられ、これが国際的な専門用語として定着したのである。

黒ボク土がまっ黒な色をしているのは、土壌の中に有機物が腐植として多量に集積しているためである。黒ボク土は、日本の他の土壌に比べて腐植含量がきわめて高く、また世界中のいろいろな土壌と比べてもその高さは最高位にある。

黒ボク土にも生育できる (リン酸の吸収力が強い) ススキやササの植生が、長い年月の間に多くの有機物を土壌に供給したのである。また、火山灰に多く含まれる活性アルミニウムは、腐植と強く結合して、腐植を容易には分解できない形に変えることも知られている。この腐植の難分解性が、黒ボク土における腐植の多量集積の要因になっているのである。黒ボク土の上に新しい火山灰が降り積もり、さらにその上部が黒ボク土に変わり、いくつかの層状になっていることも多い (写真1)。

黒ボク土は、土壌の中にすき間 (気相) が多いのも特徴である。日本の他の土壌は、すき間の割合が50パーセント前後のものがほとんどであるが、この黒ボク土には、一般に、85パーセント以上のすき間がある。これは、黒ボク土の粘土がアロフェンあるいはイモゴライトという中空の鉱物からできていること、また多量に集積した腐植が団粒の形成を促進すること、などによるものである。

黒ボク土に多く含まれている活性アルミニウムと粘土のアロフェンは、リン酸との結合力がきわめて強くて、ひとたび結合したリン酸を容易には解放しない。土壌は、一般に、リン酸と強く結合するが、黒ボク土の場合は他の土壌に比べてとくに強くリン酸と結合する。このため、黒ボク土では、植物がリン酸欠乏になって、生育がきわめて悪くなってしまうのである。

たとえば、宮崎県にある 「えびの高原」 は、秋になるとエビ色のススキで覆われる。この地帯の酸性とリン酸欠乏の苛酷 (かこく) な土壌条件が、他の植物の侵入を寄せ付けないばかりか、ススキでも、リン酸欠乏から茎や葉っぱにアントシアン色素が集積してエビ色に変色するのである。“えびの高原” の名称の由来はここにあるといわれている。すなわち、黒ボク土のような極端にリン酸供給力の乏しい土壌では、耐性のあるススキなど一部の植物しか生育することができないのである。

日本列島の黒ボク土の分布(地図)

図1 日本列島の黒ボク土の分布
@ 菜畑、曲り田、板付などの日本最古の水田遺跡群
A 宇佐八幡宮
B 九重高原の黒ボク土地帯
C 畿内地方 (大和朝廷が成立した)
D 登呂遺跡 (弥生時代後期の水田跡)

3.古来、農業には不向きだった

前述のように、黒ボク土には大きな欠点があって、このことが、農耕地としての開発を困難にしてきた。弥生時代に日本列島に伝来したとされている水田稲作の伝播についても、黒ボク土地帯を避けて移動したことが知られている。

九州に上陸した水田稲作の技術は、北部九州から瀬戸内海の平野を経由して畿内に到達したといわれている。この経路について、土壌肥料学者の藤原彰夫は、専門の立場から、黒ボク土との関連で以下のような新説を提唱している。

日本のもっとも古い水田の遺跡は、九州北部の玄界灘沿岸の平野に集中しているが(図1の@)、これは、土壌の性質との関係がきわめて深い。すなわち、九州北部のこの地域は、大陸に近いということもあるが、この地帯の土壌は火山灰の影響が少ない玄武岩や花崗岩の風化物からできており、水稲がつくりやすい土壌である。このような土壌は、北九州を回って、大分県の国東半島近くまで続いている。

国東半島の北側には、全国八幡宮の総本社とされる「宇佐八幡宮」という大きな神社がある(図1のA)。二世紀には、宇佐の豪族が、この地を中心として大きな勢力を広げていったようである。九州北東部のこの地が、なぜそのような要地として栄えたのであろうか。

その答は、藤原説に基づけば、土壌にあるようである。すなわち、図1を見ると、国東半島より南は、火山灰の堆積が多くなって、黒ボク土の大きな壁がある。

宇佐まで到着した水田稲作は、それより南下することを阻(はば)まれたため、海を渡って瀬戸内海へ進んでいったのである。そして、稲作のみではなくて、一般の文化も宇佐を拠点として瀬戸内海へ拡大していったため、宇佐が文化交流の要地として栄えるようになったものと思われる。

藤原説によれば、花崗岩や水成岩からできたケイ酸質の土壌からなる瀬戸内海両岸の平野は、黒ボク土がなくて(図1)、初期水田の定着のための絶好の条件を備えていたのである。このため、瀬戸内海の平野部では次々と開田が進んで、稲作はすみやかに東進して、現在の大阪府や奈良県付近まで短期間で到達したと推定される。そして、この畿内地方もまた、黒ボク土はなくてケイ酸質の土壌が広く分布していたため、水田稲作はこの地に定着して、大和朝廷が樹立するための基礎となったと考えられている。

また、西から進んできた水田稲作が、静岡付近(図1Dの登呂遺跡)で、かなりの長期間にわたって停滞したことが知られているが、これも藤原説では土壌との関連で説明できる。すなわち、静岡東部の平野から北には日本列島に横たわる大きな黒ボク土の壁がある。この壁に阻まれて水田稲作の拡大はここで停滞し、関東地方やそれ以北への伝播が遅れたのである。

最近の調査では、北陸地方や東北の日本海側にも古い水田の遺跡がいくつか見つかっている。しかし、これは、そこから出土した土器の形などから、九州北部から対馬海流にのって直接北へ伝播した水田稲作であろうと推定されている。そして、この地方もまた、稲作に適するケイ酸質の土壌からなる平野が広がっていたため、稲作はすみやかに定着しながら裏日本を北上していったものと考えられている。

このような、農耕地として不向きな黒ボク土地帯が開拓されるのは、土壌肥料学の研究が進んだ近代になってからである。

4.土壌肥料学の挑戦

明治5 (1872) 年に内務省は、東京に内藤新宿試験場 (現在の新宿御苑) を設立し、また明治10 (1877) 年には農事修学場を設立して、農業に関する研究と教育を始めた。

農事修学場は明治11 (1878) 年に駒場に移転して駒場農学校 (東京大学農学部の前身) と改称し、欧米から卓越した指導者を招いて、本格的な農業指導と教育が開始される。この時から、土壌の研究は、農芸化学という学問分野の 「土壌学」 として、もっとも重要な学科の一つに位置づけられることになった。

これらの新しい教育体制のもとで、日本でも次々と優秀な指導者が育っていった。その一人が、関豊太郎である。関は、明治38 (1905) 年に盛岡高等農林学校 (岩手大学農学部の前身) の土壌学の教授として赴任した。世界で最初に黒ボク土の研究を手がけたのは関である。東京と盛岡の火山灰ロームについて化学的、鉱物学的研究を行い、学位を取得している。

詩人で童話作家の宮沢賢治は、盛岡高等農林学校の在学中に、関豊太郎のもとで土壌学を学び、大きな影響を受けた。関が学位を取得した際には、級長だった賢治の提案で、講義を中止して、お祝いを兼ねた論文を聞く会が開かれたというエピソードがある。また、賢治の自伝的作品といわれる 『グスコーブドリの伝記』 に登場するクーボー大博士は、恩師の関豊太郎がモデルと思われる。

関豊太郎はまた、昭和2 (1927) 年に設立された 「日本土壌肥料学会」 の初代会長に就任し、日本における土壌肥料学の発展のために大きな貢献をした。黒ボク土研究の草分けとしての関の業績は、その後多くの研究者に受け継がれ、発展する。明治26 (1893) 年に東京の西ヶ原に創設された農商務省農事試験場 (農業環境技術研究所の前身) においても、黒ボク土に関する基礎的な研究が開始され、多くの業績の積み重ねにより、科学的な解明が進んだ。関豊太郎も、大正9 (1920) 年に農事試験場に移り、土壌肥料学の研究と後進の指導にあたっている。

5.黒ボク土の今は

明治から大正期にかけて、基礎的な研究が進むにつれて、黒ボク土地帯を開拓しようという試みが全国で行われた。しかし、この開拓の試みは、一部を除いて、ほとんどが失敗に終わっている。黒ボク土は、農業的には“問題土壌”という汚名を着せられてしまうのである。

黒ボク土地帯の開拓が進むのは、戦後になってからである。戦後の極度の食糧難時代に、とにもかくにも農耕地の拡大が政策上の大課題となり、実用的な研究が開始される。一方で、過リン酸石灰や熔成リン肥などのリン酸肥料の生産が始まり、黒ボク土の改良と農業利用がいっきに進むことになるのである。

黒ボク土は、通気性や排水性がよく、また一方では、保水性もよい。また、土壌が軟らかくて耕しやすいという長所もある。このため、黒ボク土は畑の土壌としてはきわめて物理性がよくて、作物の栽培に適している面もある。化学肥料あるいは有機質肥料として多量のリン酸を施用すれば、作物の生産量は他の土壌と同等か、それらを超える場合も希ではない。

黒ボク土は、日本全土の約16パーセントを占めているが、現在は、その64パーセントが農地であり、畑地、果樹園、牧草地として広く利用され、また低地では水田としても利用されている。

しかし、日本の農業の現状を見ると、まことに嘆かわしい。先人たちが、せっかく苦労して研究し、開拓してきた黒ボク土の畑や田んぼの一部が、休耕地や耕作放棄地となってしまって、見捨てられようとしている。きわめて残念なことである。

参考文献

『火山はすごい』鎌田浩毅(PHP新書)2002

『折りたく柴の記』新井白石(日本古典文学大系95、岩波書店)1964

『怒る富士(上)、(下)』新田次郎(文春文庫)2007

『土と日本古代文化』藤原彰夫(博友社)1991

『土と人のきずな』小野信一(新風舎)2005

『石っこ賢さんと盛岡高等農林』井上克弘(地方公論社)1992

『童話集 風の又三郎』宮沢賢治[谷川徹三編](岩波書店)1951

『宮沢賢治の生涯』宮城一男(筑摩書房)1980

(土壌環境研究領域長 小野信一)

土壌肥料学にかかわるエッセイ(8回連載)

朝日長者伝説と土壌肥料学

司馬史観による日本の森林評価と土壌肥料学

徳川綱吉と土壌肥料学

リービッヒの無機栄養説と土壌肥料学

火山国ニッポンと土壌肥料学

化学肥料の功績と土壌肥料学

水田稲作と土壌肥料学(1)

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